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連載・特集

ヒロシマの記録-遺影は語る 広島二中

※1999年11月16日・17日付けの特集などから

■記者 西本雅実・野島正徳・藤村潤平

 広島市中区の平和記念公園の本川左岸にある慰霊碑=写真=は、おびただしい数の死没者を刻む。高さ1.5メートル、横5メートルの石碑の裏面をたどると、生徒344人、教職員8人の名前がある。「広島県立広島第二中学校」の戦災死者遺族委員会が1961年に建立した。死没者の多くは、原爆が投下された1945年に入学して間もない12、13歳の少年たちであった。

 6学級からなる1年生は8月6日朝、碑が立つ旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員されていた。整列し、引率教師の訓示が終わろうとするころ、原爆投下機エノラ・ゲイの機影が頭上にあった。

 爆心直下から約500メートル。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。ある者はその場で息絶えた。意識を取り戻した者は、目の前の本川に飛び込んだ。

 6日夕、捜しに入った母親は「水際に至る迄(まで)重なるように重傷の子供充(み)ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあり」と、光景をとどめた。7日朝に着いた父親は「屍(しかばね)は既に膨張し、どれもこれも同じ様な容貌(ぼう)」と、焼け残りの着衣やベルトで息子を確かめるしかなかった。

 全身やけどで自宅にたどり着き、また救護所に運ばれた少年たちは、ひん死の中で父や母の名を呼び、友らの身を案じた。声を振り絞って軍歌を歌い、「天皇陛下万歳」を唱えた。「国のために尽くすことが当然という時代、教育でした。それでも、あこがれの二中に入学でき、懸命に生きていました」。80代後半になる母や、応召や動員体験を持つ兄や姉たちは感慨を込めて話した。

 今回の「遺影は語る」は、広島二中の碑に刻まれた一人ひとりの最期を追った。学制改革の翌48年に芸陽高校、49年に現在の県立広島観音高校となった同窓会事務局が引き継ぐ記録や、未公刊の各種資料などを手掛かりに、遺族を捜した。少年たちは、どこで、いつ、どんな思いで亡くなったのか。手紙を送り、約500人の協力を得た。

 その結果、碑に名前がある1年生321人について、269人に加え新たに判明した2人の271人の被爆死状況と、2人の生存が分かった。2年生以上や教職員を含む計352人については、呉空襲の犠牲になっていた2人を除く、計294人の原爆死没者を確認し、262人の遺影の提供を受けた。

 正式には「広島二中報国隊」。中島の動員現場にいた1年生全員は、原爆が頭上でさく裂した6日後の12日までに亡くなっていた。

広島二中の死没者名簿
 1年1学級   1年2学級   1年3学級   1年4学級   1年5学級   1年6学級 

 2年から5年・教職員   新たに確認(1999年11月27日)   新たに確認(2000年6月28日) 

その他
 遺品と資料 

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