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連載・特集

ヒロシマの記録-遺影は語る 広島市女1年

少女は待っていた 夢みた明日を
※2000年6月22日・23日付けの特集などから

■記者 西本雅実・野島正徳・藤村潤平

 広島市中区の平和記念公園そばを流れる元安川の平和大橋。故イサム・ノグチがデザインし、彫刻家本人は「生きる」と名づけた橋の西詰めに、少女たちの原爆慰霊碑と名前を刻んだ銘碑がある。広島市立第一高等女学校の碑である。1年生だけで277人を数える。その面影は名前から推測するしかない少女たち全員が、1945年8月6日朝まで生きていた。戦時下とはいえ、あこがれのセーラー服にそでを通し、希望を膨らませていたに違いない。それが原爆でついえた。父や母らの期待さえも。

 「市女学徒隊」の1、2年生は8月6日も前日と同じ作業現場に動員されていた。当時の宮川造六校長が、生徒遺族の父母たちが13回忌に編んだ追悼誌『流燈』に寄せた手記の一部を引く。校長は現場を後にして一命を取り留めた。

 「西福院の土塀の南側に生徒たちを集めて朝礼を行った。そして身体の弱い生徒数名は生徒の持ち物即(すなわ)ち水筒、弁当等を塀の前におかせてこれの見張りをすることとし作業を開始した」

 作業は、空襲に備えて防火地帯を設けるために取り壊した家屋の後片付けだった。現場は、西福院があった木挽町から碑がある元安川右岸にかけて。現在は平和大通りになる一帯は、爆心五百メートル内外に当たる。原爆は、おかっぱ頭の少女たちの頭上近くでさく裂した。

 今回の「遺影は語る」は、「広島市女2年」(1999年2月28日付朝刊)に引き続き、原爆で最多の犠牲者を出した学校、市女の1年生1人ひとりの生きたあかしと最期を追った。

 入学写真がクラスごとにあった2年生と違い、1年生は撮っていない。市女と後身の舟入高同窓会が受け継ぐ慰霊祭で昨年の席上、協力を呼び掛けた。『流燈』に残る遺族氏名や、33回忌の出席者名簿を手掛かりに、多くが代替わりしていた遺族を捜した。

 その結果、1年生6クラスの死没者277人のうち、243人の被爆死状況が判明し、出身小学校(当時は国民学校)卒業時のクラス写真での確認を含めて213人の遺影の提供を得た。併せて教え子とともに倒れた教員6人の遺影を掲載する。

 いちずに日本の勝利を信じていた少女たちの大半が、最期は遺骨すら不明であった。炎天下の作業の疲れや家庭の事情で当日は作業に出ておらず、助かった1年生は23人という。互いに消息がある13人から「伝え残したい」ことを書いた手紙が寄せられた。その1通はこう結んであった。

 「学びたかった、生きたかった、『生』を無残にちぎりとられた無念さを考えてほしい。なぜ死ななければならなかったか。自分の痛みとして受け止めてほしい」。入学4カ月後、少女たちはわずか12、13歳で逝った。

広島市女1年生の死没者名簿
 1年1学級   1年2学級   1年3学級   1年4学級   1年5学級   1年6学級 
そのほか
  教員の死没者名簿     新たに確認された死没者名簿 
  昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌     1年5組入多正子さん 妹あての手紙

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