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連載・特集

遺影は語る 世紀を超えて<上>

核の威力と悲惨さ象徴
※2000年6月28日付けの特集などから

■記者 西本雅実・野島正徳・藤村潤平

 1945年8月6日、広島市に投下された原爆で壊滅し、平和記念公園(中区)となった爆心地一帯の住民や勤務者、動員学徒ら一人ひとりの被爆死状況を調査している「ヒロシマの記録・遺影は語る」シリーズは、遺族や級友の協力により、これまで3年間かけて2369人の死没状況を確認し、うち1882人の遺影が寄せられた。「遺影」に込められたものを通じ、被爆の実態を世代や国境を超えてどのように伝えていくかを考える。

 ▽「尊い犠牲者」

 平和記念公園内の東側で今、総工費36億円をかける施設工事が進む。地上1階、地下2階延べ3000平方メートル。2002年に開館する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館である。

 原爆を生きのびた被爆者が1950年代半ばから声を上げ、ようやく被爆50周年の前年に成立した被爆者援護法に建設は基づく。

 条文によると「国は、原爆死没者の尊い犠牲を銘記して(略)その体験の後代の国民への継承を図り、死没者に対する追悼の意を表す事業を行う」。つまり原爆で逝った人たちを追悼する施設をつくり、被爆体験を伝えていくわけだ。では、国として「尊い犠牲」はどれだけいるとみているのだろうか。

 広島・長崎両市にできる「追悼平和祈念館」のあり方について、事業を所管する厚生省は、有識者からなる「開設準備検討会」(座長・森亘元東京大学長)を設け、2年前の最終報告書をこう導き出した。

 ▽14万±1万人

 「原爆死没者の正確な数は不明である」として、両市が76年に国連へ提出した「推計値を用いる」と。広島原爆で言えば、45年末までの死没者とされているのは「14万±1万人」。

 居住者、国の命令による建物疎開作業に郡部からも大量動員されていた学徒を含む義勇隊、本土決戦に備えて第二総軍が置かれた広島にいた軍人や軍属、少なからぬ朝鮮半島の出身者たち…。その死没者数を「推計値」に求めた。なぜなら原爆被災の実態、全体像の究明を怠ってきたからだ。

 そこに、広島被爆者団体連絡会議事務局長の近藤幸四郎さん(67)は「原爆投下に至る戦争責任をあいまいにしている」国の姿勢をみる。また動員学徒の兄欣次郎さん=当時(15)=を失った遺族の一人としてこうも言う。

 「生存被爆者の援護に力を入れるあまり、語ろうとしない被爆者や、非被爆者を含む遺族とひずみが生じた。死者を悼む気持ちが平和運動の始まり。広島を訪れる人たちがどれだけ悼みを共感できるか、祈念館の建設を機に新しい運動を広げていきたい」

 祈念館のメーンとなるのは高さ8メートル、直径18メートルの吹き抜けの「追悼空間」。その内壁に、死没者を表すという14万個の点からなる廃虚と化した広島の光景がパノラマで設けられる。厚生省は、被爆者団体が求めた死没者氏名の刻名は、氏名の把握が難しいなどとの理由で退ける一方、遺族の申請に基づく「氏名と遺影の登録」を打ち出している。

 2001年度から広島・長崎両市を窓口に、遺影の収集を始める。「データベース化して閲覧にも応じたい。館内に掲げることについても、物理的なスペースに限りはあるが、検討している」(保健医療局企画課)という。近く募集ポスターを制作し、各都道府県の関係部署を通じて呼び掛ける。

 ▽無言の証言者

 この6月に日本被団協代表委員に就いた藤平典さん(71)は東京の自宅で、広島高師(現・広島大)1年で迎えた「8月6日」を顧みながら、「1人ひとりが名前を持った人間として死んでいったんです。私が助けられなかった人たちにも名前があり、人生があった。それを目に見える形で表すなら協力したい」と話す。

 人間が20世紀につくり出した大量殺りく兵器の原爆。「遺影」は、その恐ろしいまでの威力、人間的な悲惨さを無言のうちに次世紀にも伝える歴史の証言者である。

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