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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<1>

妹よ…消えぬ負い目

■編集委員 西本雅実

 被爆体験と記憶の風化が言われる。本当なのだろうか。広島県立広島第一高等女学校(県女=現皆実高)の1年生だけで223人が亡くなっている。そのうち広島デルタ以西などから通っていた6組の生徒は42人が犠牲となった。少女たちはどのような最期だったのか、家族らはどう語り継いでいるのか-。63年後の夏に追う。

動員学徒 生死分けた作業出欠

 「前日は私もこの辺りで作業をしました」。広島市西区に住む浜田平太郎さん(78)は、デルタを縫って走る路面電車の小網町電停に歩を進めた。

 妹で県女1年6組の浜田孝子さん(12)は1945年8月6日朝、爆心地から西南約800メートルとなる、この中区小網町一帯の建物疎開作業に初めて動員されて出た。

 デルタでの建物疎開は、米軍の空襲に備えて市中心街を東西に貫く幅100メートルの防火地帯を設けるため政府が指示した。市の記録によれば、小網町一帯は7月28日までに住民は疎開。取り壊された家屋の後片付けに10代前半の中学生らも学徒隊として動員される。

 孝子さんは被爆による全身やけどにもかかわらず、爆心地の西北約3キロの己斐国民学校までたどり着く。知らせが古田町(西区)の実家に届いた。春先に病死した父に代わり、兄の浜田さんが向かった。広島一中(現国泰寺高)の3年生だった。胸を病んで復学したばかりだったため、6日の作業は休み家にいた。

 「妹は顔も見分けがつかないほど変わり果て、『孝子か?』と声を掛けると、小さくうなずきました」。大八車に乗せて連れ帰ったが7日早朝に息を引き取った。「水…」「痛い」。添い寝もした母にそう口にするのがやっとの訴えだった。

 県女を卒業して猿楽町(中区紙屋町)の日本興業銀行に勤めていた、姉の照代さん(21)の遺体は識別できなかった。母と二人となった。

 浜田さんは翌年、一中や県女の生徒らが書いて寄せた広島初の被爆手記集「泉」の編さんに当たった。6日も引き続き小網町の作業に出るなどした級友のうち、少なくとも38人が死んでいた。

 しかし、現広島大を出て市内の中学校で社会科を教えるようになると「原爆を避けた」。69年にできた「広島県被爆教師の会」へ誘われても拒み、70年代から高まった平和教育でも体験には言及しなかった。妻にさえほとんど話さなかったという。なぜなのか。

 「悪くいえばサボったから生き残った。その負い目から話す気になれなかった」。淡々と顧み、今の心境の一端を表した。「死んだ者が語れない以上、生き残された者が語るべきだと思います。気づくのが遅いと言われそうですが…」

 妹や姉、級友を捜すなかで見た被爆の実態を、「ひろしまを語り継ぐ教師の会」が2004年に編んだ手記集「白い花」に寄せた。「私の軌跡」と題した一文をこう結んでいる。

 「8時15分、どこにいたかが、人の命の分かれ目だったのです」。国と教えを信じて生きた学徒を知り、「あの日」を生き延びた者として悼む気持ちが消えないからだ。

(2008年7月27日朝刊掲載)

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