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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<2>

母の涙 生ある限り娘を思う
最期の17日間の面影胸に刻む

■編集委員 西本雅実

 広島県女1年6組の橋本淑美さん(13)の母は健在のはずでは-。被爆から63年の夏、県女同窓生から聞き、捜し訪ねた。瀬戸内海の海水浴場として知られる光市の室積海岸近くに住む。

 橋本富子さん(96)は「明治44年の9月生まれ」だった。ベッドから起きあがり、両手をひざに置いて話し始めた。

 「淑美は幼いころから気丈な子でした。あの日も自分で帰ってきて17日間も生きたんです」。遊園地が広がっていた広電宮島線沿い、広島市佐伯区楽々園に夫の転勤で住んでいた。そこから一人娘は、現在の平和大通りに面する中区中町にあった県女に通った。

 「姉さん、淑美ちゃんは暁部隊の兵隊さんに背負われて帰ったのよ」。妹の藤原登志子さん(85)が、富子さんの記憶を補足した。当時、一緒に住み、楽々園遊園地にも駐屯していた陸軍船舶司令部(暁部隊)で筆記の仕事をしていたという。妹が補うたび、姉は「あんたはよう覚えとるねえ」と笑い掛けた。

 県女同窓生のもとに富子さんが1976年にあてた手紙が残る。「廻(まわ)りの先生やお友達はほとんど裸の状態になられた」。爆心地約800メートルの小網町の建物疎開作業に出た娘から聞いた被爆の瞬間や、「頭の毛をさはればぬけはじめ」て8月23日に亡くなった様子を便せん7枚に記す。

 文面に向き合うと、まな娘との「17日間」がよみがえるかのように書き表せなかったことも話し出した。

 「お母ちゃんのところに帰れてよかったといいました。気分はええことなかっただろうに、お庭をそろりそろりと歩くんですよ」「死にたくないと抱きつきもしました」「主人が死んだのは淑美はしっとりました」

 夫義彦さんは、爆心地に近い大手町(中区)にあった中国石炭配給統制会社が職場だった。藤原さんが暁部隊の同僚だった「長井さん」という同年代の女性と捜しに入ったが、行方は分からなかった。享年37。

 先の手紙からは、また富子さんの長く言いしれぬ戦後がうかがえる。

 「生きたしかばねでしたが、主人や子どもの供養は私がしなければと心を強くもちかへ、やつと今日まで生きのびてまいりました」。叔母を頼って光市に移り住み、製薬会社の寮で働いた。

 藤原さんは7年前に夫を亡くし、歩けなくなった富子さんと再び一緒に暮らす。原爆投下3日目に爆心地一帯へ入ったというのに被爆者健康手帳を持っていない。「証人を見つけられないので」と話した。週2回の入浴付きのデイサービスを「姉と楽しみにしています」とほほ笑んだ。

 富子さんは記憶をたどるうち幾度も涙ぐんだ。それでも「淑美を思い出させてもらってありがたいことです」としきりに口にした。生ある限りまな娘を思う母が言わせる言葉だった。

(2008年7月28日朝刊掲載)

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