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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<6>

昔話なのか 「先輩の死」知りたい
記憶受け継ぐ平和教育減る

■編集委員 西本雅実

 広島県女は現在の広島市中区中町にあり、校舎は原爆で全壊全焼した。しかし、1年6組の「昭和20年度生徒日誌」は残った。生徒が携え、遺品代わりに納めていた親が31年後に後身の皆実高(南区)に寄せた。コピーが市立中央図書館にあり、閲覧もできる。

 入学3日後の「4月9日」から、生徒が2人1組の当番となり伝達事項や授業内容、感想などを日誌に書き込んでいる。

 授業は、あこがれの女学校に入学した直後からの警戒・空襲警報で中断され、「退避」が繰り返される。6月からは陸軍吉島飛行場(中区)の整地作業、東練兵場(現JR広島駅北側)の開墾作業などが続き、「学徒隊」の結成式に臨む。

 「本土決戦」が叫ばれる7月になると、乏しい食糧事情もあり、欠席者が増える。感想欄は30日の「へこたれないで勉強、運動に邁進(まいしん)しませう」を最後に、日誌の記入は31日で終わっている。

 今、皆実高(1029人)の生徒は、63年前の先輩たちの原爆死をどう受け止めているのか-。8月6日に中町で営まれる追悼式に参列する生徒会や吹奏楽部の1、2年生のうち、学校の協力を得て9人に尋ねた。

 動員作業中に被爆した1年生223人の全滅を、祖母が皆実高出身という女子生徒以外は、全員が「聞いたのは今日が初めて」と答えた。直前の終業式で、菅信博校長(57)が「あなたたちは精いっぱい生きていますか」と、1年6組が書き残した「生徒日誌」の重みに言及したからだ。

 被爆地の高校ですら今は、「原爆を教える時間は持てない」と関心を抱く教師らは歯ぎしりする。広島県教委が被爆60年に90高校に聞き取った「平和に関する取り組み」でも、実施は36校にとどまる。「総合学習」は、保護者の要望も強い進学・就職のキャリア教育が優先される。

 9人は広島市やその近郊から通い、小・中学校では「平和学習」を受けていた。被爆した少女の「折り鶴」を題材とする学習が一様に続いたといい、中学生になるころには「あーまた」とマンネリ感をも覚えていた。

 祖父が被爆したという1年の白井祐太さん(15)は「皆実にも被害があったと聞き、忘れるんじゃなくて…」と言葉を探った。「原爆の日を答えられない人がいるのをテレビで見て残念だった」という、2年の松永彩さん(17)は「県女のことをもっと詳しく聞きたい」。もどかしさも見せた。

 追悼式で被爆翌年につくられた「哀悼歌」を吹奏する、2年の爲政舞さん(16)は「ヒロシマを知らない人に伝えられるように、ちゃんとなりたい」と話した。それぞれが「もっと知りたい」と言い、うなずき合った。

 今でいう中学生から大学生まで、48校から「あの日」学徒動員された約7200人が犠牲となった。「生徒が皆実で学ぶ意義を自覚できるよう、われわれも学校の歴史を学び伝えなくては」と菅校長。被爆の記憶を受け継ぐ各学校に共通している自戒でもある。

(2008年8月1日朝刊掲載)

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