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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<7>

生き残った者 事実の共有に使命感
日記など基に追悼集編さん

■編集委員 西本雅実

 広島県女に1945年春入学した、宍戸和子さん(76)は胸にうずく記憶がある。その年末に草津本町(広島市西区)の寺で営まれた学校の慰霊祭へ出ると、1年6組だった娘を失った母から責められるように泣かれた。「あなたは生きとるんね…」

 宍戸さんは、可部線北部などからの生徒が7月23日から通った川内国民学校(安佐南区)の臨時教室で閃光(せんこう)を見た。両親との住まいは上柳町(中区橋本町)だったが、住所を祖母が疎開した可部町(安佐北区)に移したことから、川内村が通学先となっていた。

 「生き残ったのが申し訳ない気がして、卒業後は同期で集まることはなかった」という。原爆で心の傷を背負うことになった「45期」が語り合うようになるには、歳月を要した。そして昨年夏、「原爆8月6日 平和への祈り」を編む。

 宍戸さんは中区の平和記念公園に近い自宅で、東京から泊まりがけできた級友と、せきたてられるような気持ちで編さんに当たった。「長く生かされた私たちが語り継がずに逝(い)ったら、亡くなった彼女らに合わせる顔がない」と思ったからだ。

 38人が「生き残った生徒の8月6日」について回答し、22人が「心の奥にとじこめていた思い」を寄稿した。寄稿をためらった同期はカンパを寄せた。遺族らの手記や、学校の記録もB5判、181ページに織り込んだ。昨年の県女追悼式で参列者に手渡し、連絡がついた遺族をはじめ、広島市内の全小・中・高、県内の高校・図書館にも送った。今年の8月6日の追悼式でもさらに配る。

 児童文学作家の大野允子(みつこ)さん(76)は「あの日を生き残った1人として」同じ校舎で学んだ県女1年の生と死を書き続けてきた。川内村の陸軍被服支廠(ししょう)分工場に7月から動員されていた2年生だった。

 「ひーちゃんはいった」(1977年)「夏服の少女たち」(89年)…。親たちを訪ね、残されていた日記などを基にした作品は朗読劇や芝居にもなり、この7月も山梨県で上演された。

 「ひたむきに生きていた少女たちが殺された理不尽さ。親きょうだいの家族が彼女らに寄せる無限大の思い。人間はこんなにも優しく強いのに、核兵器があふれる世界をつくるほど恐ろしくもなれる。少女たちと家族の思いを忘れてはいけない、決して消し去ってはならない」

 安佐南区の自宅を訪ねると、胸のうちを一気に話した。今、「原爆」が「過去の出来事」とみられがちなことに焦りにも似た心情を抱く。

 宍戸さんは「原爆がどれだけ人を傷つけたかを今の人たちに万分の一でも分かってもらい、それが残れば…」と、追悼集に託す思いを表した。

 「あの日」の県女生徒だった2人をはじめ関係者は取材に協力を惜しまなかった。ヒロシマの事実と記憶を未来への礎として多くの人に共有してほしいと願うからだ。

(2008年8月2日朝刊掲載)

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