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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<8>

遺影は語り継ぐ 未来奪った原爆の惨劇

■編集委員 西本雅実

 被爆体験と記憶は風化しているのか-。広島県女1年6組の遺族を捜しあてると、63年の歳月を超え、原爆の威力と悲惨さを語った。「風化」という言葉を使う軽々しさが伝わってきた。広島市中区小網町一帯で被爆した、少女たちの最期を証言や提供資料などからさらにたどる。

 名前(満年齢)▽1945年8月6日の住所▽被爆死状況や家族の捜索-などの順に記す。

 宇川翠さん(12)▽南観音町(西区)の伯父宅▽収容先の大野陸軍病院で七日死去。山県郡の疎開先から母らが捜しに向かった。学童疎開していた弟武彦さん(73)は「死ぬ間際に家族の疎開先を告げていて、遺骨を受け取ることができました」。








 岡田明子さん(13)▽観音村(佐伯区)▽遺骨は不明。一緒に住んでいたいとこの森山フキエさん(80)は「前日まで休んでいましたが、お友達に会いたくて灰色の上下のもんぺ姿で出ていきました。学校の先生になりたがっていました」。








 片倉千兄(ちえ)さん(13)▽古田町(西区)▽義勇隊として小網町の建物疎開作業に出た父義夫さん(50)と戻り、「オ母サンアメリカ憎イネ憎イネ」(母が和紙に書き留めた言葉)と言い7日死去。父は翌日に死去。めいの坂井慶子さん(60)は「亡き祖母や母のころから6日は県女の碑にお参りを続けています」。








 大道(だいどう)律子さん(12)▽落合村(安佐北区)▽兄が連れ帰った落合村の疎開先で死去。妹の山田玲子さん(72)は「やけどはひどくなかったのが、水を飲んでは黄色い液状のものを吐くようになり、『こっちの目も見えなくなった』と言いながら息を引き取りました」。








 田平幸子(ゆきこ)さん(12)▽草津本町(西区)の姉宅▽己斐の民家で七日死去。下着の名札から遺体が確認された。生家の牛田町(東区)に五日帰り、動員先の工場が六日は休みの一中二年だった兄利明さん(76)が休むよう促すと、「そういうことをしたらいけんと言いました」。








 徳沢淳子(あつこ)さん(12)▽廿日市町(廿日市市)▽遺骨は不明。生家の寺を受け継ぐ妹の祐子さん(71)は「両親は現場跡で炭化した姉の弁当箱を見つけましたが、遺体は分からず似島も回りました。前日に田舎の親せきを訪ね、作業があるからと馬車で夜遅く帰ってきたそうです」。








 林義子さん(13)▽千田町(中区)▽草津町の長姉宅で7日死去。県女4年で千田町で被爆した姉の日山仁子さん(79)は「小網町に翌日向かうと1年生は己斐国民学校に逃げたと聞き、崩れそうな橋をはって渡りました。着くと見分けがつかない姿ばかりで…。妹は里の倉橋島から出てきて、県女に通えることを喜んでいました」。








 藤田安佐子さん(13)▽地御前村(廿日市市)▽遺骨は不明。大阪市から母の郷里に4月、家族で疎開し、県女に入った。南観音町の動員先で被爆した二中三年だった兄省吾さん(77)は「母と捜しましたが、大豆をいり持って出た缶も見つからず、どこで死んだのか全く見当もつきません」。








 宮本奈津美さん(13)▽大野村(廿日市市)▽地元の救援隊が作業現場そばの路面電車の中で7日見つけて連れ帰り、8日自宅で死去。妹素子さん(61)は「姉の日記を今も大事にしまっている99歳の母の分まで、この6日は帰省する娘や孫と追悼式に参列します」。








 元川ヒサ子さん(14)▽宮内村(廿日市市)▽遺骨は不明。両親が移民したキューバで生まれ40年に帰国した。動員先の西天満町(西区)で被爆した兄清さん(79)は「敗血症で入学後から休学していたのが、頑張ると言って作業に出ました」。復学は8月1日だった。



 少女たちの未来は、一発の原子爆弾で断ち切られた。きょうだいらは「なぜ死ななくてはならなかったのか。親家族はどんな気持ちで生きてきたのか。若い人たちに自分のこととして感じてほしい、考えてほしい」と語った。今を生きる者たちが原爆を忘れたとき、おびただしいヒロシマの死者たちは再び死を強いられるのだ。

(2008年8月3日朝刊掲載)

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