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連載・特集

ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 <2>

2つの国で 忍び寄る戦争の影、米国籍で日本へ

■編集委員 西本 雅実

 日本でも大ヒットしたスティーブン・スピルバーグ監督の映画「ジェラシック・パーク」は、カウアイ島のハナペペ渓谷で撮影された。映画の恐竜が登場しそうなイメージをかき立てる濃い緑の木々が生え、切り立つ谷は深い。レスリー・ナカシマは、手つかずの自然が今も残るこのハナペペで1902年に生まれた。

 「でも…」。ほぼふた回り違いの弟ヘンリー・ナカシマ(75)は苦笑いするようにこう話した。「カウアイ島はきつい農業だけで、いい仕事がない。レスリーに続いて、次の兄たちも一人前になるころには、レスリーを頼ってホノルルに出て行ったんです」

 11人きょうだい。末っ子で八男のヘンリーが物心ついた1930年の米国国勢調査を見ると、日本から移民した一世と米国生まれの二世を合わせた日系人は、ハワイ准州(州への昇格は59年)で人口の38%、13万9600人余に上っていた。その3人に1人が、政治・経済の中心地オアフ島のホノルルに集まっていた。

 長兄のレスリーは、10代で単身ホノルルに出る。

 雑貨店や白人家庭の家事働きをしながら、「ジャパニーズ・ハイスクール」とも言われ、二世の多くが通ったマッキンレー高校を卒業。ハワイを漢字で「布哇」と当てた一世たちが創刊した海外邦字紙の草分け、日布時事で英文編集部の記者となる。30歳を前に、現地の有力紙ホノルル・スター・ブレティンに移り、行政やスポーツと幅広く取材を手掛けた。

 かじ職人の父與之助は、若いころから体を酷使したのがこたえ、ぜんそくに苦しむようになっていた。還暦が迫っていた。「それで両親が広島に引き揚げることになり、幼かった僕とすぐ上の姉が連れられて広島へ渡ったんです」。ヘンリーが9つ、姉は15歳だった。

 その姉、ヤエコ・スガワラは今年81歳を迎え、カウアイ島ワイメアで元気に暮らす。町は、18世紀にハワイ諸島を「発見」したキャプテン・クックが上陸したことで知られる。

 広島女学院高女を卒業したヤエコは「日本語は忘れてしまった」と笑いながら、英語を交えて言う。「両親はもう働かなかったけど、広島での生活は不自由なかったですよ。レスリーが応援してくれ、学校が夏休みになると私たちを東京見物にも呼んでくれた。グッド・ブラザーでした」

 レスリーは帰郷した両親の後を追うように、4年間勤めたホノルル・スター・ブレティンに別れを告げ、日本に向かう。そのいきさつを自ら書き残していた。

 「1933年に日本とマンチュリア(満州)への取材旅行の途次、東京のジャパンタイムズの編集局長に会い、デスク業務の申し出を受けて入社を決めた」。日本国民が中国東北部での満州国建国に沸いていた34年5月、ホノルル港から日本へ向かった。

 両親の国である日本と米国の「二重国籍」の日系二世が珍しくない中、米国パスポートでの来日だった。日本政府が二世男子の国籍離脱を無条件で認めた翌25年に申し出ている。弟や妹が口をそろえるように「考え方も気質も日本の人と違った」。

 日本では、警視庁から米国人として1年ごとに「滞邦許可」を受けた。38年に東京出身の八千代と結婚した後も米国籍であった。そのことで、やがて彼は追い詰められる。(敬称略)

(2000年10月7日朝刊掲載)

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