×

連載・特集

ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 <5>

祖国の壁 市民権回復求めて続けた孤独な闘い

■編集委員 西本 雅実

 新しい憲法が施行され、笠置シズ子が歌う「東京ブキウギ」に国民が戦後の解放感を受け止めていた1947年、レスリー・ナカシマは「祖国アメリカ」を相手に孤独な闘いを強いられていた。

 米国市民としての登録を前年2月に横浜領事館で申請したところ、「日本国籍を得ており、米国市民権は喪失している」との返事が国務省名であった。すなわち、ナカシマが米国ハワイ生まれであっても、日本の国籍に入った以上は、生来の市民権である米国籍はないと宣告された。

 当時、日本は占領下にあり、一般に日本国籍者は海外に出ることはできなかった。ナカシマにとっては、故郷ハワイを訪ねることすらかなわない。何より、米国人であるという自分の存在を頭から否定された。

 市民権を取り戻すため職業柄、言葉を持って立ち上がった。タイプライターに向かい、復帰していた米国の通信社UP(本社ニューヨーク)幹部や、来日した新聞人に協力を求めた。その書簡の束が、東京都港区に住む長女鴇田(ときた)一江(61)のもとに残る。彼の訴えの柱を引く。

 「天皇に忠誠を誓ったことはない。戦争となり、逮捕される恐れがあったからだ。そうなれば家族をみる者はいなかった」。追い詰められて日本の国籍に戻った状況をつづっている。また、他の多くの二世が二重国籍にあり、「日本に来ると日本人として暮らしているのに、国務省が彼らを米国市民とみなしているのはアンフェア(不公平)だ」としている。そして「娘二人は米国に出生届をしており、いつかハワイに連れて帰りたい」と訴えている。

 高校卒業後に米国留学の経験を持つ一江は言う。「お父さんは自分は米国人だと思っていました。日本で言えば明治生まれの男性ですけど、家の中でも違いました」。朝食はベーコンと卵の米国スタイルをこしらえ、身の回りのことは自分でした。「それに、納豆は最期まで食べられなかった」。笑いがこぼれた。

 書簡をたどると、UP社長らが国務省に再考を促している。しかし、特別の事情があったとはいえ、市民権という多民族国家の根幹をなす法を、こじ開けるのは困難であった。最終的には56年に国務省の見解に従っている。

 「僕の場合は、大戦中に自らの考えで日本国籍を取って同盟の上海支局に出ました。レスリーが、彼の意思で決めたのであれば政府の判断をフェアだと受け止めたでしょう。しかし、アンフェアだと思ったから認められなかった」

 東京都渋谷区の井下博(85)は、かつての同僚の思いをそう推し量る。カリフォルニア州出身で36年に来日し、戦後にUP東京支局で一緒になった。日本外国特派員協会が2年前に出した英文の50年史の執筆に当たり、ナカシマが初めてヒロシマルポを打電したことを指摘していた。

 「レスリーは二世の僕からみても米国人意識は強かったと思う。ハワイの人らしく開けていた。大きな声でよくしゃべりました。アジアでのスポーツゲームをカバーしていました」

 米国市民権の回復を断念した56年にあった豪州メルボルン五輪を、日本のパスポートで取材している。国内では毎年のように広島を訪れ、原爆その後を記録している。

 被爆25周年の60年はこう書いて結んでいる。「ヒロシマは人口40万を超え、道は広がり、ビルが次々に建つ(略)新しく生まれ変わったとしても、あの悲劇は忘れてはならない」(敬称略)

(2000年10月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ