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連載・特集

ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 プロローグ

■編集委員 西本 雅実

 被爆直後の広島の惨状をルポし、いち早く世界に報じたのは、ハワイ生まれの日系二世のジャーナリスト、レスリー・ナカシマ(日本名、中島覚)さんだった。残っていた記録や関係者の証言から、1945年8月27日に米国の通信社UP(現UPI)を通じて打電していたことが分かった。記事は、同月31日付のニューヨーク・タイムズなどに掲載されていた。海外への広島ルポ第一報は、英国紙の特派員ウィルフレッド・バーチェット氏と長い間信じられていたが、彼の打電より8日早かった。

 記事は、「人口30万人だった街には、完全な形の建物は1つとしてない」と原爆投下16日後の8月22日に入り、歩いた廃虚の様子や市民の被害を詳しく伝えている。なかでも 「原爆の紫外線で今も毎日、死者が出ている」と、米軍の原爆調査団が9月に東京で記者会見して否定する放射線障害の深刻な影響をいち早く指摘していた。建物疎開作業に動員された「何千という中学生の男女も犠牲となり、行方不明者の数は驚くほどだ」と、原爆により非戦闘員が多数犠牲になったことも触れている。 ナカシマさんが、日本進駐の米軍戦艦に乗船していたUP記者と連絡を取り、打電した記事は、「消えた広島」の見出しで8月31日付のニューヨーク・タイムズに大半が掲載された。30日付のホノルル・スター・ブレティンにも顔写真入りで、一部が載った。広島に入り、いち早く打電した事実も9月10日号の雑誌タイムに紹介され、米国の主要メディアを通じて被爆の惨状を初めて知らせる結果となった。

 ナカシマさんは1902年、広島市出身の両親が移民したハワイ・カウアイ島に生まれた。現地の新聞記者を経て34年に来日。東京で発刊された英字紙のデスクを務めたが米国籍だったため40年に辞めざるを得なくなり、UP東京支局に移籍。日米開戦の41年12月8日の支局閉鎖まで記者として働いていた。 被爆直後の広島には、カウアイ島から郷里の広島市仁保町(南区)に引き揚げていた母タケノさんを捜すため入った。

 世界への広島ルポ第1号は、英国デイリー・エクスプレス紙の特派員だったウィルフレッド・バーチェット記者(1983年死去)と、広島県や広島市の史誌もそう伝えてきた。オーストラリア出身の同記者は9月3日に入り翌日に打電、記事は5日付の英国デイリー・エクスプレス紙に掲載された。 「原爆の疫病 私は人類に警告する」の見出しが付いた記事は、原爆がもたらした実態を、怒りを込めて描写している。

 なぜ、事実誤認が一人歩きしたのか。54年8月号の雑誌「世界」がバーチェット記者の寄稿に際して「単身広島に至り、原爆被害第一報を打電…全世界に訴えられた」と、前書きで紹介。さらに、59年に出版され原爆文献の古典となる「原水爆時代」(広島大教授、今堀誠二氏著)が、同記者の記事にその言葉が表れていない「ノー・モア・ヒロシマ」を唱えたとして、報道ぶりをつぶさに紹介した。その後に出た研究書や、新聞・テレビの報道は、この「原水爆時代」の記述に基づき、バーチェット氏が初めて打電したとしてきた。

 ナカシマさんは、UP東京支局再開とともに復帰し、75年に引退するまで取材活動を続けた。90年に88歳で死去した。

記事全文は、日本外国特派員協会(東京)が創立20周年を記念して65年に発刊した英文の「20年史 1945-1965」に採録されている。

(2000年10月5日朝刊掲載)

※広島の惨状を伝える記事の全文はこちらから

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