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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <3> 

■編集委員 西本雅実

「8・15」 観念的な国家観崩れる

 日本が植民地支配した朝鮮で少年期を送り、6番目に開設された「帝国大学」へ日米開戦3年後の1944(昭和19)年に進む

 米国の潜水艦が対馬海峡に出だし、内地の旧制高校は受けにくい。入ったのは京城帝大(1924年創立)予科理科乙類(医学コース)です。理科なら徴兵猶予があるというおやじの願いもあった。骨の名前をラテン語で300カ所も覚えさせられ、解剖の実習に立ち会わされた。軍医になれという速成教育。医者には向いていないと思った。

 先輩や浪人してきた級友からは「子ども」扱いされた。教師に理由なく殴られる京城中が嫌で4年で城大に入ったでしょ。哲学や社会科学的な本は全く読んでいない。悔しくてたばこを吸い、酒を飲んだけれど知識は追い付けなかった。

 朝鮮でも学徒動員が始まり、1年の夏は金浦空港(ソウル)でモッコを担いで土運び。2年になると興南(現在の北朝鮮咸興市)に送られ、3交代で働いた。チッソ(当時は日本窒素肥料)の化学工場です。そこで8月15日を迎えた。

 玉音放送は作業に就いていたので聞いていない。昼すぎ、戦争は終わったらしいとなり、工場の走行クレーンに上がり暗幕をはがして回った。宿舎までの道々、JODK(26年開局した京城中央放送局)が「国体は護持されました」と盛んに放送するのを聞いた。

 宿舎では、まあ、僕ら日本人は酒を寂しく飲んだ。「居留民でおれるんじゃないか」と、のんきなことを言うやつもいた。朝鮮人の級友らは急によそよそしくなり、町に出ていった。独立するんだと大騒ぎしたらしい。

 翌日、僕も町に出てみたら「日帝、日人即時撤去」のビラがいっぱい張ってある。しかし、その意味が分からなかった。植民地という意識は全くなかった。朝鮮で生まれ育った日本の連中と同じように自分の国土、山河だと思っていた。

 ソ連が北朝鮮にも侵攻してくると、日本人避難民がどんどん出てきた。僕は天地がひっくり返って大変だと思っているのに、朝鮮人の農民は畑を耕している。それをみて頭でっかちの国家観のおかしさに目が覚めた。国はいざとなったら弱い者を見捨てる。でも、庶民は関係なしに明日の食いぶちをつくる。これが人間が生きることなんだと思った。

(2009年10月1日朝刊掲載)

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