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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <5>

■編集委員 西本雅実

東京 署名集め・出版に奔走

  朝鮮から引き揚げ、1948(昭和23)年に旧制広島高を卒業すると東京へ出た

 学生運動というか、「ストックホルム・アピール」の署名活動を積極的にやった。党派(共産党)には入らなかったけれど、僕も時代の空気の中で生きていたのは間違いない。

 広島の人間だから被爆の惨状を見ているし、原爆はもう使われてはいけんと思うよね。そこへ(1950年6月に起きた)朝鮮戦争でしょ。知っている地名がたびたびラジオから聞こえ、米軍が再び原爆を使うかもしれない状況があった。在日朝鮮人も必死になって運動をやっている。そういう連中に刺激された部分も僕にはあった。

 ソ連が主導する世界平和評議会が1950年3月に発表した、原子力兵器絶対禁止を求めるアピールは、米軍占領下でも600万人を超す署名が集まった

 あのころは出版編集を本格的にしていた。有斐閣の編集長が広高の先輩だったのでアルバイトにいくと、広高で1年上の広中俊雄くん(現東北大名誉教授)がいた。彼から今の東京大学出版会(1951年3月設立)で一緒にやらないかと誘われた。前身の東大協同組合出版部が戦没学徒の遺稿集「きけわだつみのこえ」(1949年10月刊)を出して評判になったその後です。

 編集部は4人。僕は文学や歴史書を担当した。(マルクス主義歴史学のリーダーで86年死去した)石母田正さんの「歴史と民族の発見」には思い入れがある。庶民の歴史を掘り下げる考えの石母田さんに原稿を頼むと時間がとれないという。国会図書館で新聞や雑誌をあさり、それまでの論評を中心にまとめたのが、あの本です。

 「民族と歴史の発見」(1952年3月刊)は当時の学生に熱烈に受け入れられた。はしがきには「平岡敬氏の協力なしには、本書はできあがらなかった」との謝辞が記されている

 大学の方は広高でドイツ語をやっていたから早稲田でドイツ文学を専攻した。卒論は翻訳がまだ珍しかった「カフカ論」。卒業した1952年は本当に就職難の時代でね。学校へ行っても求人は、どこかの先生の口があるくらい。出版会は大学の直属機関みたいになり、その年初めに辞めていた。しかも体をこわした。おやじは「帰ってこい」としきりに言ってくる。友達からは「都落ちか」といわれたが広島へ帰った。

(2009年10月3日朝刊掲載)

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