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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <7>

■編集委員 西本雅実

先輩記者 原爆取材への執念学ぶ

 中国新聞入社10年目の1961(昭和36)年に学芸部へ配属となり、金井利博部長のもと「原爆問題」への視点を深めていく

 「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨さとして知られたか」。金井さんが発した問い掛けに影響を受けた。悲惨な目に遭った被爆者と戦後を共に生きてきた広島の記者だからこそ、核兵器の問題を人間の側からみなきゃあいけない。教えられたし、今もそうだと思う。

 占領が終わり、原爆というものは曲がりなりにも伝えられていたけれど、もっと実質的に、被爆の実相を世界に伝えよう、それが核兵器禁止、核戦争防止につながる。そうした考えが、あの問い掛けによる「原水爆被災白書」の提起となった。

 金井氏は論説委員専任の1964年、原水爆禁止運動の分裂に伴う「原水爆被災三県連絡会議」で白書の作成を提唱し、日本学術会議も支持。政府は1965年に生存被爆者の全国調査を初めて行った

 国の責任において原爆被害の白書をつくる。求めるだけじゃあない。自分たちでも白書の資料を集めようと(1968年に)「原爆被災資料広島研究会」を平和記念公園の近くに設け、学生らも巻き込んだ。執念の人です。

 学芸部長の時は、アール・レイノルズ(広島から核実験禁止を訴え、5年余をかけ世界一周航海)の手記「フェニックス広島号の冒険」(1961年10月10日付から134回掲載)の翻訳に朝から没頭する。周囲の思惑とかは一切気にしない。金井さんだから…と許された面はあったが。

 「会えるまで毎日通え」といわれ、ロバート・リフトン(1962年に滞在し、「死の内の生命」を著した米精神医学者)の帰国直前にインタビュー記事(同年9月16日付)をものにできた。取材へのこだわりも教えられた。

 記者は2年か3年で担当が変わる。組織で動く以上やむを得ない面はあるが持ち場を離れても、原爆の問題に限らず自分のものとしてどこまで追究していくか。そこが肝心。

 広島研究会の「原爆被災資料総目録」(1969年から1972年に3集を刊行)の編さんに参加したのも命令されたからじゃない。(論説主幹だった1974年に60歳で死去した)金井さんは病室からも「おまえ、難民の問題をやれ」と(当時は販売局長の)僕に電話してきた。いい意味での執念は及ばないところです。

(2009年10月8日朝刊掲載)

 

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