×

連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <8> 

■編集委員 西本雅実

ヒロシマ二十年 「原爆報道」の礎を築く

 高度経済成長期に入った1965(昭和40)年、被爆20年の特集報道を展開する

 取材班をつくるまでにはいきさつがあった。会社は1964年の東京五輪の年に「スポーツ中国」を創刊した。僕は文化部デスクからスポーツ新聞整理部長となり、毎日4ページを7人でつくる綱渡りをしたが、販売の問題とかがあり休刊(1964年1月25日付~翌年1月31日付発行)。僕を処遇するポストがなく、編集委員となって遊んでいたら、兼井亨さん(社会部長から編集局次長)が「人を出すから取材班をつくれ」という。

 何をするか。被爆のそれまでの歴史をABCC(1947年に発足した原爆障害調査委、現・放射線影響研究所)を含めいろんな角度から整理する。まとまったものは当時なかったし、人間と核兵器を考察する視点は薄かった。被爆の実態は「ヒロシマの証言」(1963年に33回連載。社会部の河田茂、浅野温生、松浦亮記者による初の本格的なルポ)のようにもっと掘り起こしていこうと企画した。

 「〝ヒロシマの夏〟は熱く、〝広島の二十年〟は耐えがたく重い。日本の戦後の重みが広島の一点に集中しているからだ」。この書き出しによる自らの「炎の系譜」、浅野記者ら5人が担った「世界にこの声を」、そして年表「広島の記録」からなる「ヒロシマ二十年」は、朝刊7月8日付から8月6日付まで1ページ特集で連載し、1965年の新聞協会賞を受ける。被爆地からの報道の礎をつくった

 記事は最初は別々の面に載せる話だった。やるなら1ページの方がインパクトがあると言うと、兼井さんが応じてくれた。毎日1ページの紙面を取るのは大変(朝刊は当時14~16ページ)。形のうえでも画期的だった。中国新聞の原爆報道といえば、金井利博さんの名が挙げられるが、兼井さん(1996年に75歳で死去)の功績は大きい。

 今となると悔いもある。(1954年のビキニ水爆被災から起こり、約3600万人が署名した)草の根の原水爆禁止運動が、各政党の路線が持ち込まれて分裂し、組織の運動になった。運動自体が人間を救うということに目がいかず、組織の論理優先に陥った。広島の被爆者団体も党派に別れた。今の若い人には理由すら分からないでしょう。運動の分裂批判だけでよかったのか。日米安保の問題を含め反核運動の本質にもっと切り込むべきだった。

(2009年10月10日朝刊掲載)

年別アーカイブ