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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <9> 

■編集委員 西本雅実

在韓被爆者取材 日本人の責任見つめる

 日韓基本条約により国交が回復された1965(昭和40)年、在韓被爆者の取材にいち早く取り組んだ

 韓国・馬山から編集局に1通の手紙が届き、僕に回ってきた。広島の学校を出て比治山(南区)近くで被爆したという男性が治療を受けたいと日本語で書いた手紙を読み、ショックを受けた。

 朝鮮人の被爆は知識としてはあっても、それがわれわれにとって何を意味するのかを考えていなかった。植民地支配と被爆という二重の被害に目が向いていなかった。

 朝鮮育ちだから向こうの様子はある程度分かる。「ヒロシマ二十年」の連載を終えてレギュラーの仕事はない。で、兼井亨さん(編集局次長)に「韓国取材に行きたいので原稿を1本5千円でこうてもらえませんか」と持ち掛けた。10本書けば大阪・伊丹からの飛行機代は賄える。部下が事故に遭ったら責任を問われるかもしれないのに、型破りの局次長の返事は「ええよ」。新聞社ものびのびとしていた。

 朝刊1面で1965年11月25日付から10回連載した「隣の国 韓国」は、朝鮮戦争の傷跡も生々しい戦時体制下で生きる庶民の姿を伝え、貧苦のどん底にある在韓被爆者の存在と支援の必要性を報じた。加筆した「韓国の原爆被災者を訪ねて」を雑誌「世界」1966年4月号に発表(未来社刊の「証言は消えない」にも収録)した

 「彼らの悲惨さを認識することは、日本人の歴史的責任を自覚することである」。そう書いたでしょ。自分たちを戦争の「被害者」だと位置づけて切り捨ててきた「加害者」としての責任を、取材を通じて考えるようになった。素朴な正義感からかもしれない。日本からも韓国政府からもほったらかしにされた人たちを見捨てておけない。「世界」編集部の安江良介さん(後に岩波書店社長、1998年死去)が僕の記事を見つけ、東京発の雑誌にも書くようになった。

 記者ってのは功名心もある。オレはこれをやるぞという魂がこもってなければ、いい記事にならない。韓国・朝鮮人の被爆は日本に大事な問題だと言ったり書いたりしても、個人の趣味というか好きでやっているとみられた。広島の被爆者団体も関心を持とうとしなかった。で、密入国した被爆韓国人の支援と裁判に個人としてかかわっていくわけです。

(2009年10月14日朝刊掲載)

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