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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <12> 

■編集委員 西本雅実

行政の長 おわび・説得に自ら回る

 広島市長に就任早々、惨事に直面する。1991年3月14日昼、市が発注した新交通システム建設現場(安佐南区)で橋げたが落下、15人が死亡し8人が負傷した

 事故は出張先の東京で一報を聞き、すぐに戻った。その夜から病院や被害者宅を回った。おわびを続けた。しかし「市に法的責任はない」と、補償交渉の場では言わざるを得なかった。マスコミからも責められたが、発注責任を認めるとあらゆる自治体の工事に影響を及ぼす。立場上とはいえつらかった。

 事故は1996年に元請け会社(千葉市)の社員3人の有罪が確定。損害賠償訴訟では1998年、遺族側が市への請求を放棄した

 就任1年目は、9月の台風19号による塩害停電(商工業で約29億円の被害)、翌月は太田川でシアン検出(約36万世帯に断水などの被害)と都市災害が続いた。危機管理をどうするか勉強を積んだ。

 政策は出馬から時間的な余裕がなく詰め切れていなかった。3年後の広島アジア競技大会に向け、さまざまな事業が進行していた。行政は継続性があり、僕がやり直せと言ったのは三つしかない。

 一つは(1981年に基本計画策定の)広島駅南口Aブロック再開発。地権者2人が脱退し百万都市の玄関口が分断した格好になるのに、大会に間に合わせるためとゴーサインが出ていた。夜に自分で地権者のもとへ通い、感情的なもつれをほぐし、同意を得た(1999年に福屋などが入るビルや地下広場が完成)。

 二つ目は広島平和研究所。当初は財団法人にして原爆資料館東館の地下に置く構想だった。それでは研究者はこない。市立大の付属機関にして(1998年開設)、平和についての政策を国内外に提言する研究所を狙ったけれど…。

 もう一つは今の西飛行場存続。広島空港の(1993年)開港を控えた竹下虎之助知事に伝えたら、それは怒った。(1982年に)荒木武市長と連名で、ジェット機乗り入れ反対住民と全面移転の覚書を交わしていたからね。でも広島の都市機能にとって空港は必要です。

 役所はトップが方針を示すと肉付けする能力はすごい。Aブロックは自分でやった感覚があるが、後はみな組織でした仕事。「市民が主役」と掲げたように、職員も自由に議論できる役所にしよう。当時の課長連中は感じてくれたんじゃないだろうか。

(2009年10月17日朝刊掲載)

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