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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <17> 

■編集委員 西本雅実

海外原爆展 国際世論変える手立て

 現在、13カ国36都市を数える広島・長崎市が連携した海外原爆展は被爆50年の1995年に始まった

 米国立スミソニアン航空宇宙博物館が1995年に企画した被爆資料も展示する特別展が、原爆投下を肯定する政治家や退役軍人団体の反対で中止に追い込まれましたよね。で、ワシントンにあるアメリカン大の協力で7月に開いた原爆展は、ささやかな規模でも訪れた人は衝撃を受けた。

 開会に当たり講演したけれど、被爆の実態を知ってもらうにはやはり実物を見てもらうのがいい。広島は溶けた瓦や黒焦げの弁当箱はあるが、長崎のように人間が写る、感情に強く訴える写真が少ない。「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」を進めようと伊藤一長さん(当時の長崎市長)に言うと賛成してくれた。

 1998年には核拡散防止条約(NPT)にいまだ未加盟のインドで原爆展を開く。首都ニューデリーを訪ねた翌5月、インドは24年ぶりに核実験を実施。パキスタンも続いた

 実験準備は聞いていたし、中止を要請した。会談した副大統領は、インド洋沖に展開する米第7艦隊や背後の中国の核に囲まれ、隣国パキスタンが核開発を進める状況では、核武装は自衛のためだと主張する。部屋に亡きガンジーの写真があったので、非暴力の精神を訴えたガンジーなら大量殺りく兵器をどう思うだろうか、と問い掛けた。「核は持っても使うなだろう」と苦しまぎれの答えをした。じゃあ持たなくてもいいじゃないかと言ったら、こうたたみかけてきた。

 「あなたがた日本は、米国の核で守られているのに他国に持つなと言えるのか、帰ってまず政府に言うべきことだ」と言う。議論は全くかみ合わなかったし、ちょっと反論できなかった。

 なぜなら、日本政府は「非核三原則」(1967年に佐藤栄作首相が表明)を唱えながら実態はおざなり。国連では「唯一の被爆国」と言って核軍縮決議は出すが、魂を込めて動いてきたとはいえない。

 核兵器を信奉する国際世論を変えていくうえで原爆展は大きな力を持つ。市の予算では規模も回数も限られる。政府に(1996年)要請したが今も本気で取り組まない。日本主催の原爆展に米国は反発するでしょう。しかし核兵器廃絶の先頭に立つ気なら、それくらいは乗り越えないと。

(2009年10月24日朝刊掲載)

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