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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <20> 

■編集委員 西本雅実

希望のヒロシマ 明日を見すえた思想を

 「体力が衰えた」と1999年に市長を退いた後も、核被害者の支援や講演など国内外で精力的な活動を続けている

 僕は、ヨットが好きなもんだから辞めた後は釣りをしたり、セーリングしたりしようと思っていた。でも市長時代(95年)に「ひろしま未来大学」をつくり、ボランティア活動の重要性をえらそうに説いた。その1期生らが「ぜひ手伝ってほしい」と言ってきた。

 一つはカザフスタン・セミパラチンスクの被曝(ひばく)者支援(旧ソ連が1989年まで約470回の核実験を実施)。もう一つはカンボジアの首都プノンペンでの「ひろしまハウス」建設。どちらも広島アジア競技大会の折に公民館を使った「一館一国・地域応援事業」から広がったものです。

 セミパラへ第1回の訪問団長として(1999年)いくに当たり、まあ少し金をためていたので医薬品を積んで荒れ地を走れるランドクルーザーを贈った。被害調査を続ける広島大原爆放射線医科学研究所や、カザフからの留学生を受け入れる山陽女学園高(廿日市市)の協力と相まって、いい形ができてきた。戻った留学生も通訳で手伝ってくれています。

 「ひろしまハウス」はわれわれもれんがを積み上げ、3年前に4階建ての完成をみた。1階は日本国際社会事業団に貸して家賃をいただき、地元のNGOを支援する活動が少しずつ実ってきている。

 僕は「中国・地域づくり交流会」の代表も続けている。地域が壊れたまま核兵器廃絶を訴えたところで観念的だし、別次元の話だと思われる。「核のない世界」が「平和な世界」ではない。核兵器廃絶の向こうに、どんな社会をつくるのかを考えて行動しないと、スローガンを唱えるだけになる。やはり日々の暮らしから人権や環境の問題も考えていって、本当の意味で「平和」を実感できる。

 広島の思想は阿鼻(あび)叫喚の原爆被害から生まれた。60有余年がたち、市民も被害をリアルに感じられなくなっている。被爆した歴史を土台に暮らしの中から平和思想をつくらなければならない。それを日本に世界に広げ、核廃絶につなげる。難しいよね。でも僕は生きる限り考えていきたいと思います。=おわり

(2009年10月31日朝刊掲載)

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