×

連載・特集

65年の夏 広島一中3年生の軌跡 <3> 軍国少年

■編集委員 西本雅実 

神父との出会い 心開く

 「国のために死ぬ」。加藤良夫さん(81)は一中に入るとそう決意したという。広島駅北側に広がっていた東練兵場で中学生を募り行われていたグライダーの操縦訓練に参加した写真を見せ、「疑問を覚えたことはなかったですよ」。広島市安佐南区で営む呉服店を訪ねると、ひょうひょうと話した。

 戦闘機乗りを志していた3年生の「8月6日」、建物疎開作業に出た爆心地約1・5キロの鶴見橋西詰めで吹き飛ばされた。意識を取り戻して目の前の京橋川に飛び込むと、「おい加藤、おまえも皮が垂れとるぞ」。同級生の声が聞こえてきた。

 何とかはい上がり、路面電車の軌道添いに逃げ、駅構内から東練兵場を抜け、中山峠を越えて祇園町(安佐南区)の実家まで自力で戻り母から食用油を塗ってもらう。小網町(中区)の疎開作業に動員された広島高女1年の妹正子さん=当時(13)=は翌朝になっても帰ってこなかった。

 「母が大八車を引いて迎えにいくと頭に木が突き刺さっていたそうです。胸に縫いつけた名札から分かった。遺体を見ても私は泣きませんでした」。終戦を告げる「玉音放送」を聞いた日は「仇(かたき)を討つぞ、と言いましたね」。65年前に立ち返るうち目頭は潤んでいた。

 「命は鴻毛(こうもう)よりも軽し」。そうした考えは、「これからは民主主義」といわれてもたちまちには変わらなかった。

 転機は長束修練院長だったペドロ・アルぺ神父(1991年死去)との出会い。スペイン出身の神父は日米開戦による宣教師送還を免れ、安佐南区の修練院で被爆当日から押し寄せた負傷者の救護に努める。医師でもあった。

 全壊した一中の分散教室の一つが修練院近くの山本国民学校にでき、「英会話教室」も校内で始まった。軽い気持ちから主催する修練院にも足を向けるようになった。

 「国のために死ぬ」ことの持論をとうとうと述べる少年に、神父は「それは自殺です」と答えたという。議論を重ねるうちに「心が開かれた」。被爆から2年後洗礼を受ける。

 一中卒業後は家業の呉服商を継ぎ、教会で出会った女性と24歳の年に結婚。妻文子さん(80)は「あの日」は動員先の広島逓信局(中区)にいた。次男を生後45日で失うが1男1女を得る。自転車の行商から始めた店が軌道に乗ると、民生児童委員や保護司を務め、米国との交換留学生のホームステイも引き受けるようになった。

 ところが60歳を前に胃がんと診断される。「死んでしまうのかと思うと泣き言も出た。人間の弱さを思い知らされました」。顧みれば、胃の全摘手術は昭和の終わりが近づいた秋、退院は平成の始まりだった。妻の後押しもあり、翌年の夏から被爆体験の証言に応じるようになった。

 今年の「8月6日」も中区であった「原爆被害者証言のつどい」に文子さんと出席し、全国から訪れた学生らと向き合った。「私は軍国少年でした」。大義に生きた日々からを語っていった。

(2010年8月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ