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連載・特集

65年の夏 広島一中3年生の軌跡 <4> 上京

■編集委員 西本雅実

病魔と闘い起業果たす

 東京都大田区に住む鎌田喜四郎さん(79)の「被爆に関するアンケート」は、「一中卒業後」の欄が胃・腸の切除手術など病歴と転職の記述で埋まる。石油ショックに見舞われた1974年時に寄せ、「一番の楽しみ」との問いには経営する「会社の安定化」とだけ記していた。

 6畳一間から妻の助けで創業したという、その「シロー化学」は今は調布市にある。3階建てビルの地下でシャンプーなどの化粧品を作り、1階が事務所、階上には長男家族が住む。アンケートに答えた広島在住の同級生の消息を記者にひとしきり尋ね、せきを切ったように話した。

 「よくこの年まで生きてこられたと思いますよ。大病や借金のたびに、ここで負けてたまるものかと頑張ってきた。努力を怠らなかったから力を貸してくれる人も現れた」

 瀬戸内に浮かぶ上蒲刈島(現呉市)の出身。広島で働く姉と家を借りて一中に通うが、2年生秋からは東洋工業(現マツダ)で航空機のピストン作りの勤労動員が続いた。

 「8月6日」は、3クラスのうち半数が鶴見橋西詰めの建物疎開作業に出て鎌田さんもそこで被爆。広島湾沖合の似島陸軍検疫所に収容されていたのを両親が捜しに入って見つけ、連れ帰った。

 医師の往診を受けても傷口からのうみや下痢は止まらず、外傷がないまま広島から島に戻った叔母やいとこらが死んでいくのを放心状態で見ていた。

 1948年に上京し現在の星薬科大へ進む。10代で米国へ移民した経験を持つ父は専門資格の大切さを説き、無理をしてまで仕送りをしてくれた。卒業後は製薬会社勤めを始めるが、春になると体のだるさに襲われた。造血機能の低下だった。

 「伊東君も書いているように、放射線被曝(ひばく)の影響は未知な部分が多く当時はほとんど知られていなかった。私もなんで? とやり過ごしていた」。被爆者援護の理論を1960年代に打ち出し、後に日本被団協代表委員として援護法(1995年施行)への運動を率いた伊東壮さん(2000年死去)は一中3年の級友。

 鎌田さんも、1958年に結成された東京都原爆被害者団体協議会(東友会)の草創期から参加し、理事を引き受けて1971年の社団法人化に尽力していた。

 「東京に出た被爆者は偏見だけでなく無関心さにも苦しめられた。会社を起こした経験から経理に明るい私が手伝ったしだいです」。活動の一線を離れても資金カンパをする賛助会員を続ける。

 東京在住の同級生は年に1度は集まり、20人近くが今も顔を合わせる。気心知れた旧友が泊まりがけで集まっても、「8月6日」を話題にするのは互いに避けた。「聞きにくいこと」を口にするようになったのは70歳をすぎてからという。

 「それぞれにしんどい思いをして生きてきたからでしょう。そういえば、東友会の会合に出た後も伊東君と個人的に話し合うことはなかったねえ…」。ひとりごちるかのように口調は沈んでいた。

(2010年8月17日朝刊掲載)

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