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連載・特集

65年の夏 広島一中3年生の軌跡 <5> 鶴見橋

■編集委員 西本雅実

生きる証し つづる原点

 「ええ、構いませんよ」。作家の中山士朗さん(79)は、こちらを気遣うかのように明るく応じた。鶴見橋での撮影が終わると、真夏の日差しを照り返す京橋川沿いに延びる古里広島の街並みに視線をしばらく泳がせた。

 日本エッセイスト・クラブ賞を受けた著書「原爆亭折ふし」(1993年刊)に「橋」と題した一文がある。  ―私はこの橋の西側の袂(たもと)で被爆した。川に転落して火傷(やけど)した身体を水中に沈めて冷やしていたが、対岸に逃れるためにがんぎを上り、その橋を渡った。負傷者の群れで、橋は今にも崩れ落ちそうな音を発した。その軋(きし)んだ音が今でも耳の底に残っている―。

 一中3年生だった。一命を取り留めて「戦後」を迎えても、「死ぬことばかりを考えていた」と振り返る。

 初の著書となった「死の影」(68年刊)で、活気が戻り始めた広島の街中で好奇な目にさらされる「和夫」という少年に託し、そのころの気持ちをこうも描いている。

 ―人間の顔はすべてケロイドにおおわれてしまえばよい、と願い、自分を生かすように努力した人々を呪(のろ)わないではいられなかった―。和夫は、調査のためと学校にきた米軍兵士の前で上半身裸にされ写真を撮られる。自らの体験だった。

 卒業後は早稲田大文学部に進み、作家を志した。37歳の年に著した短編「死の影」が、丹羽文雄の主宰で若き日の吉村昭が編集する「文学者」に採用される。作品集の刊行にも至った。

 被爆体験に基づく作品はその後も好意的な書評をみたが、暗く重いとみなされがちな「原爆文学」は商業雑誌には載りにくい。別の題材を求められても筆を曲げる気になれなかった。なぜなら「生と死を無残に分けるのが戦争。その象徴である原爆を書くことが生きること」だから。

 東京に呼び寄せた両親をみとり、会社員生活も続け61歳で退職。それを機に大分県別府市に移り住む。「原爆亭折ふし」に続き「私の広島地図」(98年刊)を著した。

 温暖な土地への移住は、26歳の結婚時に「遺伝の恐れを考えたら子どもはつくらない」決断を受け入れ、創作活動を理解した妻の労苦に報いるため。中国から引き揚げた、14歳年上の登喜子さんは9年前に逝った。

 平和記念公園の南にある宿で、「私たちは死者を本当に見送っているといえるでしょうか」と穏やかに問い掛けた。近くの中区中島町に母の実家がありそこで生まれた。

 「残された家族はどんな思いで生きてきたのか。戦争・原爆は人生を根底から変え、生き残った者も死ぬまで傷を抱えます」。日々の暮らしに潜む戦争・原爆の傷を、感情移入の言葉を削り著していきたいという。書き生きることを顧みる場が中山さんにとっての「鶴見橋」である。

 今回、紙面に出ることを拒んだ同級生たちも「戦争・原爆」を背負っていた。癒えぬ思いを抱えて65年を生き抜いてきた。「戦後」は終わっていない。=おわり

(2010年8月18日朝刊掲載)

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