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連載・特集

被爆から59年 あの日を刻む <10>

■記者 桜井邦彦、門脇正樹、山瀬隆弘

伝え人たち ありのままの体験語る

 自宅のベッドに腰掛け、佐伯敏子さん(84)=広島市東区=が矢継ぎ早に語り始めた。「59年前と言う人がいるけれど、私には今でも、365日がヒロシマの日」「雨降れば黒い雨を思い出し、暑ければ、木陰もなく照りつけたあの強い日差しを思い出す」

 時折相づちを打ちながら、主婦平岡満子さん(62)=東区=が静かに聞く。佐伯さんが1998年12月、脳梗塞(こうそく)で倒れて外出が難しくなって以来、平岡さんは佐伯さん宅を毎月訪ね、平和記念公園(中区)の近況を伝える。

 2人は、公園にある原爆供養塔の清掃を通じて親交を深めた。

 名前が分からず、引き取り手のいない約7万人の遺骨を納めた供養塔。1955年に現在の形に建立されたころから、佐伯さんは毎日のようにバスで出かけては盛り土の草を抜き、落ち葉を拾った。

 観光客が通りかかると、「10分間だけ」と呼び止め、あの日の自分と広島を語る。「死臭がものすごく、何度も吐いた」「助けを求める見知らぬ人の手を踏みつけ、私は肉親だけを捜した」…。原爆は、母や兄、妹たち身内13人の命を奪った。

 供養塔にこだわる理由を佐伯さんは「犠牲者の声なき声を伝えることが、あの日を知る者の務め」と言う。証言する被爆者を次第に少なくしてきた59年の歳月はつらい。忘却が誇張や誤った伝説を生むことも、「ヒロシマが昔話になる」と気掛かりだ。「被爆者の中にも幾通りもの体験を話す人がいる。悲劇性を誇張しても聞き手は白ける。何より、死没者が浮かばれない」

 佐伯さんは、ベッドの横に座った平岡さんを「伝え人」と呼んだ。

 東京に生まれ育った平岡さん。15年ほど前に佐伯さんの体験を聞き、供養塔に眠る膨大な原爆犠牲に衝撃を受けた。「被爆者の思いに寄り添いたい」と供養塔に通い始め、佐伯さんが病床に伏して以降も週1回の清掃を続ける。修学旅行生たちと平和記念公園内の慰霊碑を巡りながら、佐伯さんの体験を紹介する。

 30年間も交流を続ける大阪府寝屋川市の元公務員、寺西郁雄さん(65)は2年前、佐伯さんの半生を朗読劇「広島の大母(おおかあ)」にした。今年も5日夜、供養塔の前で披露する。

 佐伯さんの証言をテープに録音しようと、自宅を訪れる小学生や教師もひっきりなし。「伝え人」の輪が広がる。

 平岡さんは言う。「佐伯さんの後継だなんていう気持ちではないんです。たまたま出会い、生きざまにひかれた。それをたくさんの人に伝えたくて」

 気負いのない言葉に、佐伯さんも笑顔で答えた。

 「あなたはヒロシマと出会ったの。私が語る亡くなった方々の話を、自分なりの方法で伝えて」

 「事実だけを話してね。ヒロシマを作り話にしてはいけんよ」

 「さあ、頑張って」 (おわり)

(2004年8月2日朝刊掲載)

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