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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <2> 父と母

■記者 伊藤一亘

亡母への思慕を筆名に

 1925年、父吉兵衛、母フミの三男として、岩国市南横町(現同市岩国)に生まれる。8人きょうだいの下から2番目だった

 父は製糸工場を経営し、かなり羽振りが良かったそうです。岩国の川下地区にあった工場を自家用車で見学に行ったのをかすかに覚えてます。当時、自家用車なんて珍しいでしょう? けれど、1930年の金解禁による大不況のあおりを受けて工場がつぶれてしまい、それからは非常に貧乏な生活になりました。

 苦しい生活の中、両親は子どもたちにしっかり教育を受けさせた

 母が教育熱心だったようです。わが家は浮き沈みが激しく、一番上の姉はまだ裕福だったころに東京の女子大を卒業しています。没落した後も、「無理してでも教育は受けさせんといけん」と、姉たちは岩国高等女学校(現岩国高)へ入りました。

 僕は尋常小学校を卒業するとき、父から「金がないので中学は受けさせられん」と、高等小学校に進みました。その後、学費がなんとかなって、1年遅れて旧制岩国中(現岩国高)に入学しました。

 たくさん姉や兄がいたおかげで、家には彼らが読んだ本が本棚に並んでいました。僕は小学5年のころ、「チボー家の人々」を読んで感激した記憶があります。当時は伏せ字だらけでした。早熟ですが、今思えば文学に親しむきっかけになったのかもしれません。旧制高校を卒業する際、文学関係に進みたいと考えたこともありました。

 一方、7歳の時に、母を亡くしている

 破傷風でね。血清がなかなか手に入らず、父が広島まで取りに行ったときにはもう手遅れだったそうです。父は、母の骨つぼを物差しでたたきながら「何で早う死んだんや」と泣いていたと、後から姉に聞きました。その後、父はずっと男やもめで苦労したと思います。

 僕には母の記憶がほとんどありません。ただ、小学1年のころ、理由は忘れましたが二つ年上の兄と一緒にひどく母にしかられ、長いことぬれ縁に正座させられたことを覚えています。

 母の里は岩国市御庄です。母に連れられて行った記憶がおぼろげにあり、僕の中で御庄は強く母と結びついています。母親への思慕から、僕は筆名に「御庄」という名前をもらいました。

(2010年7月28日朝刊掲載)

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