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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <7> 峠三吉

■記者 伊藤一亘

詩論交わしともに歩む

 1949年初夏、詩人の峠三吉(1917~53年)と出会う

 峠の方が八つ年上。非常に女性的な感じの人でね。「優しいお姉さん」という感じだった。彼も「しょっちゅう血を吐くんだ」と言って、同病相憐(あわ)れむというのか、すぐに打ち解けましたね。

 2度目に会った時、峠が住んでいた平和アパート(広島市中区)に行きました。えらく勇ましい、革新的なことを言っているのに、部屋の壁には甘ったるい恋愛詩が掲げられててね。ちょっとびっくりしたのを覚えています。ロマンチックな詩を書いてたころの名残でしょう。

 そのころ峠は、広島の日鋼争議で詩が朗読され、労働者の喝采(かっさい)を浴びていた。「若い詩人を結集し、新しい詩運動を始めようと思っている」と懸命に話していた。その年の11月、峠は同人誌「われらの詩」を創刊しました。僕も岩国の病院の詩サークルを「われらの詩」の岩国支部にしてね。ともに活動を始めました。「われらの詩」では、山代巴(1912~2004年)と峠と僕とで鼎談(ていだん)したこともあります。

 若き詩人同士、詩作をめぐり、議論を交わした

 峠は、しきりに「変わらんといかんのだ」と言っていました。「戦いの詩を書くためにどうあるべきか」「今、どういう詩が求められているか」とか、いろんなことを議論してました。峠は基本的には叙情派の詩人。自身の叙情性から脱却するのが難しくて悩んでいました。僕も岩国の叙事詩を書き始め、前衛派になろうと心掛けながら、散文詩を一生懸命に書いていました。

 1951年、峠は「原爆詩集」を世に送り出す

 大学に復学するため、岡山に戻る途中、峠の部屋へ寄るとまだインクの香りがする「原爆詩集」が積んでありました。「おととい、やっとできたよ」と、峠はとてもうれしそうでした。

 僕にくれた「原爆詩集」に、峠は「風立ちぬ、いざ生きめやも」の言葉を書き入れました。あの「原爆詩集」に添える言葉じゃないよ。でも、ともに肺を病む者として「生きたい」という願いがこもった言葉を贈ってくれた。ロマンチストの峠らしい、ありがたい言葉だった。

 僕はその少し前、書いた詩が原因で逮捕されたんですが、その時、懸命に支えてくれたのも峠でした。

(2010年8月4日朝刊掲載)

 

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