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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <11> 公害

■記者 伊藤一旦

水島でぜんそく患者診る

  1963年、約9年勤めた代々木病院(東京都渋谷区)を離れ、厚生省(現厚生労働省)の検疫官として倉敷市の広島検疫所水島出張所長に赴任する

 前年、2番目の子を生後まもなく失って精神的に参り、少し東京を離れたくなったところに岡山大の教授から誘いがあってね。1年ぐらいで東京に戻るつもりだったけど、公害問題にのめり込んでしまいました。

 水島はまだ工場がぽつぽつで、外国船も2、3日に1回入港するぐらい。空いた時間は水島協同病院(倉敷市)を手伝いました。僕は呼吸器の担当。既に三重県四日市市では「四日市ぜんそく」が問題になっていて、水島はどうだろうかと注意していた。すると、ぜんそくなどの患者が目立つようになりました。

 出張所を4年余りで退職し、水島協同病院へ

 工場が増えて検疫の仕事も忙しくなり、掛け持ちが難しくなりました。やっぱり僕は患者を診る方がよかったので、病院を選んだんです。

 ぜんそくなどで来院した患者に、いつ症状が出たか聞くと、多いときは10人ぐらいが同じ日に発症している。後から、市に大気汚染の測定結果を聞くと、ちょうどその数日間、高濃度の亜硫酸ガスが測定されている。そうやって少しずつ大気汚染と病気の因果関係を調べました。

 その成果をまとめ、1970年に「公害にいどむ」(新日本出版社)を出版しました。公害が問題になっていた時期でよく売れてね、6刷までいきました。その後の倉敷公害訴訟の資料にも使われましたよ。

 当時、一般の人たちはまだ公害についてよく知らなかった。スライドを持ってあちこちの集会所へ出向いてね。公害の勉強会は100回を超えています。患者の組織化にも取り組み、72年に「倉敷市公害病友の会」が発足しました。公害健康被害補償法(公健法)制定に向けた衆院公害特別委で、参考人として証言したこともある。まさに、東奔西走でした。

 1974年に公健法が施行され、翌年、水島地区も指定地域になった

 公害病患者の認定審査委員を務めました。認定審査は各地で却下された患者と主治医の間でトラブルを生んでいた。水島では認定を保留した場合はまず主治医に伝え、患者とよく話し合うよう工夫しました。

 認定審査も軌道に乗り始めたころ、広島にできる新病院の院長就任の要請がありました。

(2010年8月10日朝刊掲載)

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