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連載・特集

『被爆66年 つなぐ記憶』 2人の「父」をしのぶ朝

■記者 野田華奈子

栃木・高橋さん 救助に感謝 墓参へ

 栃木県下野市の高橋久子さん(78)は、2人の「父」をしのぶため、被爆66年を迎える広島市を訪れた。被爆死した実父と、傷ついた自分を背負い地獄絵図の中を逃げてくれた上級生の父。遺族代表として6日の平和記念式典に参列し、2人に感謝の思いをささげる。

 父岩佐節造さん=当時51歳=は勤めていた芸備銀行本店(現広島銀行本店)で亡くなった。広島県立広島第二高等女学校(第二県女)1年だった高橋さんは「あの日」、出勤する父と一緒に牛田町(東区)の自宅を出た。自転車の後ろに乗せてもらい、近くの橋で別れた。「頑張ってこいよ」。にこやかに手を振った父の姿が最期になった。

 「本通りや県産業奨励館(現原爆ドーム)によく連れて行ってくれた。子煩悩だった」。終戦した15日、兄が銀行の焼け跡に捜しに行き、一握りの骨を持ち帰った。父がいつも持ち歩いた印鑑がそばにあり、手掛かりとなった。

    ◇

 高橋さんは5日、中区紙屋町の広島銀行本店を訪れ慰霊碑に参りたいと申し出た。父が亡くなった銀行に犠牲者の慰霊碑があると聞いた。職員に案内され屋上にある原爆犠牲者の慰霊碑へ。手を合わせると、遺影を取り出し笑顔をみせた。「やっと来られた」と。

 高橋さん自身は、同級生と東練兵場(現東区)で雑草取りの作業中に被爆した。両手と左足に大やけどを負った。意識がもうろうとして歩けない。友の声も遠ざかった。気が付くと自宅だった。大人が背負って運んでくれたと聞いたが、誰かは分からなかった。やけどの痕をみるたび、その記憶がよみがえり、父を失った悲しさに襲われた。

 戦後、広島で結婚。夫の転勤で引っ越しを繰り返し、約20年前に栃木県に移り住んだ。大好きだった父を失った悲しみを繰り返してはならないと、小中学生を対象に証言活動を続ける。

    ◇

 被爆から約半世紀後、広島であった第二県女の同窓会で初めて自分を背負ってくれたのは、同席した上級生から「自分の父」だと聞かされた。亡くなるまで「岩佐さんはその後どうしただろうか」と案じていたという。それだけにいまは生かされたことに感謝の思いが絶えない。

 その恩人はすでに20年以上前に亡くなったという。「死んだ父と上級生の父がいたからこそ、いまがある」とかみしめる高橋さん。6日は式典に参列後、南区の上級生の父の墓を訪れる予定でいる。

(2011年8月6日朝刊掲載)

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