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連載・特集

3.11半年 あすへ 中国地方の避難者 <上> 増える自主避難

 東日本大震災から11日で半年が過ぎた。福島第1原発事故による放射性物質の汚染の影が広がり、被災地から中国地方へ逃れる人は増え続けている。長引く避難生活。苦難の中で、あすを探る人たちの姿を報告する。

 広島市中区で11日にあった福島第1原発事故を考える集い。福島市から西区に避難中の菅野佐知子さん(38)は、福島の子どもたちの窮状を訴えた。

 菅野さんが4、10、11歳の息子3人と広島に来たのは7月下旬。思いきり遊ばせてやりたい、被曝(ひばく)線量検査を受けさせたいとの一心で、滞在は1カ月程度のつもりだった。

 自宅は福島原発から北へ約60キロ。原発事故と聞いても「離れているから」と、ピンとこなかった。だが、4月に入ると原発から離れた地域でも高い放射線が検出され、福島市でも騒ぎが広がった。学校や幼稚園では、放射性物質が積もった表土を削る工事が続いた。風評被害もあり、不安を率直に表せないムードも漂っていた。

 放射線測定器を購入し、庭先の地表や雨どいを測ってみると、数値は年間被曝限度量をはるかに超えていた。「まさか家まで」。外出時は子どもにマスクを着けさせ、家に閉じこもる日が続いた。

 自主避難先に広島を選んだのは、広島出身の「ママ友」が実家に戻っていたのと、被爆地なら放射線の情報があると思ったからだ。

 広島での久々の外遊びに、息子たちは大喜びした。ただ、ホールボディーカウンター(全身測定装置)の検査は、原発作業員に当初限定していた広島大病院(南区)では受けられず、長崎大(長崎市)まで出掛けた。

 福島に戻るか迷っていた8月中旬、住んでいた地区が国による放射線調査の対象になったと知った。「低線量でも影響がないとは限らない。もう帰れない」。夫からは福島へ戻るよう言われたが、「二重生活は厳しくても、やるしかない」ととどまる決意をした。 避難者の中には一方で、地元に帰る人も出てきた。福島県須賀川市から南区に避難していた前田留美子さん(22)。盆前の8月7日、生後7カ月の長男蒼空(そら)ちゃんとの約4カ月間の避難生活に区切りをつけた。

 原発事故後、「少しでも西へ」と、かばん一つで蒼空ちゃんと広島へ逃れた。だが、見知らぬ土地での日々は、周囲の支えがあっても思った以上に心労をためこんでいた。

 現地に残る夫が新たな住まいを見つけ、福島に帰ろうと決めた。「今は、子どもの健康を祈るばかり」。避難か、帰郷か。いずれの道も長く、険しい。(山本堅太郎、川井直哉)

(2011年9月13日朝刊掲載)

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