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連載・特集

紡ぐ平和 決意新た 留学生案内「懸け橋に」

ピースボランティア 中国交流の旅

 原爆資料館(広島市中区)をガイドしている「ヒロシマピースボランティア」のメンバー13人が、今月6日から6日間、中国・重慶市や南京市を訪れ、旧日本軍が残した侵略の爪痕をたどった。旅を企画、案内したのは、「中国と日本の懸け橋になりたい」とピースボランティアを続ける中国人留学生楊小平さん(30)=東広島市。一行は被害、加害を超えた対話を通し、平和を紡ぐ大切さを学んだ。同行した旅の様子をリポートする。(増田咲子、写真も)

≪重慶≫

 上海市から空路で約3時間。中国の高い経済成長を支える内陸部の重慶市に到着した。気温36度。じっとりとした空気に汗がまとわりつく。広島市と友好都市であり、日中戦争中、旧日本軍による「重慶爆撃」で多くの市民が犠牲になった地でもある。

 「米国人が初めて広島へ来るのと同じような感覚かもしれない」。団長の無職原田健一さん(66)=広島市東区=の表情には期待と不安が入り交じる。

 日中両国は、歴史認識や尖閣諸島問題などでぎくしゃくとした関係が続く。重慶市でも、7年前にあったサッカーの日本戦で観客から大きなブーイングが起きた。

 日ごろ、広島の原爆被害を世界から訪れる人々に伝えている日本人のピースボランティアが中国訪問を決めたのは、「加害の歴史をもっと知りたい」という思いからだ。原田さん自身、「原爆資料館は被害ばかりを伝えている」と欧米人の来館者から言われたことがあるという。

 翌日、一行は市中心部にある防空壕(ごう)跡へ向かった。当時、臨時の首都が置かれていた重慶市。旧日本軍は、無差別爆撃を繰り返した。1941年6月5日の空爆では、この防空壕に避難した約2500人の市民が窒息などで死亡したとされ、被害を伝える写真も展示してある。

 見学していると、現地の人が物珍しそうに近寄って来た。広島大大学院で、アジアの戦争と平和に関する博物館を研究している楊さんは「地元では爆撃の遺跡について詳しく知られていない。経済や外交といった日中友好関係が優先されている側面がある」と説明する。

≪成都≫

 戦争の歴史は市民の間で語り継がれていた。重慶市から高速鉄道で約2時間。四川省成都市へ移動したメンバーはその夜、四川大で日本語を学ぶ学生約20人と、七つのグループに分かれて意見交換した。日本のアイドルグループ「嵐」や、アニメに夢中の学生もいて談笑が絶えない。テーマは特に決まっていなかったが、主婦品川俊子さん(65)=南区=と学生4人は、戦争についての話題が尽きなかった。

 品川さんが重慶訪問の話題を切り出すと、重慶市出身の女子大学生が祖母から重慶爆撃の事実を聞いて育ったことを打ち明けた。幸い農村部にいた祖母にけがはなかったという。

 品川さんの祖母は、原爆でつぶれた自宅から出られなくなり、生きたまま焼かれて亡くなった。「私たちは普段、原爆の被害を説明しているけど、戦争中、中国に悪いことをしてしまった」と謝ると、大学生は「原爆の被害者も、私たちも同じ被害者。同情心を持っている」と応えた。

 交流後、品川さんは「中国人と日本人としてではなく、人間と人間の対話ができた。素直な気持ちが聞けてうれしい」と表情を緩めた。メンバーは、被爆から10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんについて説明し、小さな折り鶴を学生一人一人に贈った。

≪南京≫

 9日、一行は南京市の「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」へ向かった。館内を見学中、私たち日本人に冷たい視線を向ける人もいた。

 記念館では、日本兵に祖母を殺され、自らも乱暴されそうになった陳桂香さん(86)の証言も聞いた。ピースボランティアから日本への恨みがないか聞かれた陳さんは「当時は怒りを持っていた。でも日本軍の中にも良い人がいた。歴史は歴史で、今は友好が大事」と声を強めた。

 南京市では、市内在住の被爆者、王大文さん(86)と滞在先のホテルで面会。楊さんには忘れられない出会いとなった。

 王さんは耳が遠くなっており、楊さんの通訳を介し、66年前の「あの日」を中国語で語った。記憶は鮮明だ。当時、日本が中国東北部で統治した「満州国」から広島高師(現広島大)に留学。爆心地から1・5キロの校舎で被爆し、52年に中国へ戻った。時折、「ピカ」や「にぎり飯」と日本語を交えながら話した。

 王さんが知っていた元中国人留学生は数年前に死去し、元留学生のうち自身は中国で暮らす唯一の被爆者だという。日本への恨みはまったく口にしなかった王さん。体験を話し終え、楊さんに「日中友好のために活動してくれてうれしい。世界の平和のために頑張って」と励ました。

 楊さんは旅を振り返り、「日本と中国が互いを知るいい機会になった。歩み寄り、違いを知ることも平和につながる。中国人にとっても真摯(しんし)に平和を求める日本人との触れ合いで、心が軽くなったと思う」と、確かな手応えを感じ取っていた。

 帰国翌日の12日、被爆者で主婦の宇佐川弘子さん(66)=廿日市市=は原爆資料館に姿を見せた。「戦争は人間をどこまでも非人間的にしてしまう。戦争の愚かさ、命の大切さをしっかり伝えたい」。思いを一層強くし、案内に立った。

 来年、国交正常化40周年を迎える日本と中国。昨年12月に内閣府が発表した調査で中国に親しみを感じる人は20.0%にとどまる。楊さんが願う「友好の橋」を懸けるには、一人一人が歴史を見つめ、対話を積み重ねる必要がある。その努力が隣国同士の友好や地域の平和を築く一歩になるに違いない。

(2011年9月19日朝刊掲載)

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