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連載・特集

1945 原爆と中国新聞 <2> 全滅の新聞社 国民義勇隊

▽創刊120周年記念特集

建物疎開 動員直後に惨状

 1945年8月6日朝、広島デルタの中心街では、10代前半の学徒や老若男女の国民義勇隊が、国の命令による建物疎開作業に動員されていた。原爆の爆風や熱線、放射線に遮るものもない中さらされた。在広の新聞・通信社員らでつくる「中国新聞社国民義勇隊」は、爆心地の南西約500メートルとなる元安川右岸、現在の平和記念公園の南側に出ていた。全滅した新聞社国民義勇隊を追う。(編集委員・西本雅実)

元安川に大竜巻・大火柱

 「原爆取材のキャップ(取りまとめ役)もやったが、自分のことになると痛いところに手を突っ込まれる気がして…社にいたころは話したことはない」

 北山更路さん(76)=広島市南区=はそう切り出して、父との別れを語った。父も中国新聞記者だった。

 45年8月5日、段原国民学校4年生だった更路さんと6年生の兄の拓路さんらが集団疎開していた山内東村(庄原市)の勝光寺を、父が訪ねてきた。「将棋を平手で指して初めて勝った」更路さんに、父は「強うなったのう」と目を細めた。中国新聞庄原支局に連れられて「ぼた餅か何かを食べ」、親子3人は駅に向かう。

 「泊まればええのに」。次男の更路さんがもどかしそうに言うと、父は「明日は早う出んといけん」。それが最後の会話となった。

 北山一男さん=当時(40)=は6日、「中国新聞社国民義勇隊」の第二中隊長として建物疎開作業への動員を率いる。業務局次長兼普及(販売)部長だった。

男は65歳 女45歳まで

 政府は45年3月に「国民義勇隊組織ニ関スル件」を閣議決定。「本土防衛態勢ノ完備」を理由に、国民学校初等科(小学校)を終えた男子は65歳まで、女子は45歳までを動員する。報道機関も例外ではなかった。

 「中国新聞社国民義勇隊」は、「本社、在広各新聞社及ビ通信社ノ支社局、日本新聞公社中国四国地区本部並ニ広島県支部ノ従業員」から編成された。

 広島県政などを担当した報道部記者の大佐古一郎さん=同(32)=は隊則と人員編成の写しを残す。東京都荒川区に住む長男の晃さん(59)が保存している。

 隊長に就いた山本実一社長=同(55)=以下364人の名前が続く。23人が勤めていた同盟通信広島支社(「新聞通信調査会報」97年3月号による)や、朝日、毎日新聞の当時の広島支局長らの名前もある。隊員名簿から推計する限り、中国新聞本社員は330人前後だったとみられる。

 大佐古さん著の「広島昭和二十年」にある8月4日の記述によれば、1日当たりの出動人数は「本社員四十人、在広各社支局員六人で編成する」了解を、県国民義勇隊本部(本部長は知事)からとりつける。

 このころ広島デルタの中心街は「敵機来襲に対する事前の備へ」(中国新聞8月4日付)、第6次建物疎開が本格化していた。

 「避難廣場として約三萬坪乃至(ないし)六萬坪(水面を含む)の廣場を数ケ所設ける」(7月23日付)ため連日、国民義勇隊や学徒が、民家の取り壊しと後片づけに動員されていた。東の鶴見町から西の小網町まで、最大19万8千平方メートルの防火地帯を設ける計画だった。

 8月6日、元安川に面する天神町南組から木挽町(中区中島町。平和記念公園の南側一帯)には、新聞社国民義勇隊や、広島市立高女(舟入高)1、2年生541人らがいた。

 作業が始まって間もなく原爆に遭い、全滅した。

語り残した手記8枚

 被爆直後の惨状を伝える手記がある。報道部記者の水原知識さん=当時(34)=が語り残した。

 「救ひを求め叫ぶ人のみだ(略)手の届く友人と堅く握手をかはして最後の別れに力強くと想(おも)ひつつ共に涙ぐむのであつた」。水原さんは何とか元安川へ逃げる。しかし。

 「老若男女の幾つかの集団、川は満潮だ。両岸の住宅を包んだ大火焔(かえん)は河面一杯をなめては周期的にくりかへしてゆく。その上河面の処々(ところどころ)に大竜巻、大火柱が急に五米(メートル)十米と吹きあげ、巻きあげてゆく(略)岸辺の一団一団は次第に飲まれさらはれてゆかれて見るうちに少(な)くなつてゆく…」

 水原さんは下流の万代橋(爆心地の約890メートル)まで泳ぎ岸に上がる。12日、五日市町(佐伯区)の友人宅に着く。「戦争は繰りかへされてはならないと述懐しつつ」終戦の翌16日、死去した。報道部では、広島に4月設置された第二総軍司令部を担当していた。

 手記は400字詰めに8枚。水原さんをみとった大前茂樹氏(後に五日市町長)が「この一編をC社M記者の霊前に捧(ささ)ぐ」と、市が50年に募った「原爆体験記」に寄せた(市公文書館が保存)。

 新聞社国民義勇隊を率いた北山一男さんは、市女2年生だった長女を疎開させていた神杉村(三次市)に10日、懇意にしていた部下に伴われて着く。

 大八車を引いて迎えに行った長女、黒河直子さん(80)=西区=はこう語る。「父はつえこそ突いていましたが、包帯から目だけが出ている母と違って、しゃべることもできました」。母の二葉さん=同(33)=は京橋川に面する鶴見町での建物疎開に向かう途中に熱線を浴びた。伯母が神杉村に連れてきていた。

6日当日 出動「45人」

 6日の新聞社国民義勇隊の出動人数について、「父から45人と聞いた記憶がある」と直子さんは言う。「3人だけが逃げて連れ帰ってもらうことができた、とも話しました。父は川に一晩中漬かり翌日、本社へ『申し訳ない』と報告したそうです」

 北山さんは13日朝、息を引き取る。次男の更路さんと兄は連絡を受け、駆け付けた。「神杉の山の焼き場に行った。おふくろのやけど姿を見た時の方が…」

 母二葉さんは何とか一命を取り留める。47年、中国新聞社に採用され、母子4人は広島で暮らすようになる。市の「原爆体験記」には二葉さんの手記もある。

 「左の頬から口と喉へかけて、手の平程のケロイドができて引きつってしまった(略)ただ哀れな子たちのために、ただそのために働き続けている」。80年に68歳で死去した。

 更路さんは強い調子でこう語った。「原爆のせいでおふくろは女としての半生を捨てた。私ら3人の子を育て大学に行かせるのを生きがいとしたけれど、戦争には今も恨みがある」

 6日出た新聞社国民義勇隊には、同盟広島の小林徳宝支社長もいた。「第一報を打ってくれたか」と言い残して7日、新庄町(西区)の避難先で亡くなった(「新聞研究」67年8月号。広島支社編集部長だった中村敏氏の寄稿)。

 全滅の国民義勇隊員ら、中国新聞社員の原爆犠牲者はどれほどだったのか。

 「中国新聞八十年史」(72年刊)には「百七人」とあり、創刊100周年の「人と歴史と―中国新聞社物故者追悼録」は113人の名前を記す。休職中で猿楽町(中区大手町)の自宅にいた輸送部員林秀太郎さん=当時(28)=の爆死(97年7月23日付)を加えると114人を数える。当時の本社員の3分の1に相当する犠牲者数だ。

 もちろん犠牲者は中国新聞だけにとどまらない。広島県が保存する職域・地域の「国民義勇隊死没者名簿」や、広島市の原爆資料館の調査からたどると―。

 小網町一帯への三菱重工業が166人、広島航空機115人、天神町一帯の油谷重工業が102人、県庁107人…。川内村(安佐南区)など近隣町村を含め、国民義勇隊は少なくとも4632人が死亡した。

 学徒死没者は51校で少なくとも7196人を数える。中国新聞が市女1年生の犠牲者277人の最期を遺族の協力を基に追うと、ほぼ4人に3人の遺骨が見つかっていなかった(2000年6月22日付)。

 国の命令で防火地帯を設けるため、軍需工場での生産に務めるため動員され、それだけの人々が原爆の犠牲となった。残された家族も悲痛や苦難を強いられたのだ。

(2012年3月31日朝刊掲載)

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