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連載・特集

1945 原爆と中国新聞 <7> 本社復帰

▽創刊120周年記念特集

復興の決意 紙面に込めて

 1945年8月6日の原爆投下で本社が全焼した中国新聞は、代替紙による発行に続き、輪転機を疎開させていた広島市郊外の温品村(東区)で9月3日付から自力印刷を再開した。被爆地広島から情報を送り始めるが、17日に襲来した枕崎台風で再び発行停止に陥る。それを機に、上流川町(中区胡町)の全焼した本社への復帰を決断する。再びの災禍にも、新聞人たちは屈することはなかった。(編集委員・西本雅実)

一丸 廃虚で再出発

 広島の初代公選市長に就き復興に尽力した浜井信三さんは、枕崎台風を「まさに泣き面に蜂であった」と記している(「原爆市長」67年刊)。被爆時は40歳、市配給課長だった。

 「市役所の屋上から市中を見渡すと、全市が湖になっていた。瓦礫(がれき)や倒れた家、ガラクタがすべて水の底にかくれ(略)〝原子砂漠〟が一夜にして原爆湖水にかわっている」

輪転機が台風で浸水

 9月17日の降水量は195・5ミリ、最大瞬間風速は18日未明に45・3メートルを記録した。土石流が起きた呉市や大野町(廿日市市)など県内の死者は2012人を数えた。なぜ、これほどの激甚災害となったのか。

 山は軍用道路や防空壕(ごう)の建設で荒れていたうえ、「原爆による戦災のため、気象台の電話回線が復旧しておらず(略)ラジオで一般住民に知らせる体制ができていなかった」(「広島県砂防災害史」97年刊)。祇園町(安佐南区)に移っていた広島中央放送局も17日未明から浸水していた(「NHK広島放送局六〇年史」88年刊)。

 複合的な要因が被害を拡大させた。中国新聞の温品工場も18日付を印刷したところで止まった。そばを流れる温品川(府中大川)が出水したからだ。

 「モーターも浸水し輪転機は土砂が喰(く)ひ込み巻(き)取りも全部駄目になつた。附近の寺院に合宿、幕営してゐた社員やその家族は再度罹(り)災した。新聞は朝日、毎日両社の援助で代替紙を出して貰(もら)つてゐる」

 上京した主筆の村上哲夫さん=当時(40)=が語った様子を、「日本新聞報」10月13日号は「今度は風水害で疎開工場全滅」と見出しにとる一方、上流川町の本社ビルの修復を急いでいることも伝えている。

 廃虚の本社へ戻るか、温品にとどまるか。山本実一社長=同(55)=が、復員間もない次男の朗さん=同(26)=や村上さんら社幹部と、議論百出の末に決断したという。

 山本朗さんは、会長に就いた92年から翌年にかけ、日本新聞協会の「聞きとりでつづる新聞史」(「別冊新聞研究」95年8月号)でこう語っている。

 「本社へ帰るについては、原爆の残留放射能がどのくらいあるかないか、それの検査をよくしてもらって帰らなきゃいけんというんで」。広島への「日米合同調査団」を編成して10月再び入った東京帝大の都築正男教授に相談した。広島文理科大からも「大丈夫」との回答を得た。中国復興財団に依頼して本社の清掃と修復作業が始まった。

 中国新聞の図信(ビジュアル)の礎を後につくる、住田秀史さん(83)=西区=は、温品工場のテントに続き、本社の「中国ビル」が仮住まい先となった。

 「雨風が入らないよう窓に板塀が付けてあり、(広告部員の)おふくろと寝泊まりした。支局からの応援者や、家族を連れて来ている人もいた。30人くらいいたかな」と言う。

 「本社の復興作業班長を命じられた」山本安男さん=同(42)=は、「社屋の裏の人骨のまじった土をならして野菜作りもはじめた」と書き残している(主宰した短歌誌「真樹」65年8月号)。

 再び代替紙となると、報道部の大佐古一郎さん=同(32)=らは、同盟通信広島支社や東洋工業(マツダ)にあった県庁で得た情報を「中国新聞特報」としてガリ版で刷った。社員や県職員が手分けして鉄道沿線の各駅にも貼り出した。

 大佐古さんは紙面がなかった時分のやるせない思いを、新聞の「戦争責任」に触れて著している(「広島昭和二十年」75年刊)。復員したばかりの県職員と痛飲するうち論争になった。

 「新聞はこの戦争は必ず勝つと指導してきたではないか(略)軍と癒着しとった新聞などもう出さない方がいいぞっ!」「何をっ! われわれを半殺しの状態においたのは行政じゃないか」。帰宅して「新聞がほしい、紙面がほしい、書きたいことは山ほどある」と妻に繰りかえしたという。

亡き仲間思い出し涙

 混乱が続く中、進んで入社する人も現れた。

 吉田治平さん(89)=南区=は九州から復員直後の9月1日、廃虚の本社を訪ねた。母と3人の妹は原爆で死去。戦前に病死した父は中国新聞記者だった。

 「民主国家の建設、広島の復興にはペンの力が要る、働くなら新聞社と迷いはなかった」。台風に見舞われた農村部を取材で回った経済部記者の名刺を、今も大切に保存する。

 橋本淳さん(84)=佐伯区=の父、令一さんは出勤途中に被爆して10月20日死去した。49歳、活版部次長を務めていた。「骨組みだけの本社へ母と報告にいくと、実一社長が『うちに来い』と誘ってくださった」。焼け残った電柱を本社に運び燃やして暖をとり、販売一筋に歩む。

 再建への生命線となった温品工場の1台の輪転機は、分解して運んだ。

 「馬車へ積んでは持って帰り、積んでは持って帰りと、やっと本社へそれをそろえて(略)東洋工業の人に頼んで組み立ててもらったんですよ」(「別冊新聞研究」の山本朗さん証言)

 生き残った人たちや、「中国新聞」の題字に広島の復興も期した人たちが力を合わせた復帰作業。被爆から3カ月を前にした11月5日付から自力発行を廃虚に立つ本社で実現させる。

 本社復帰を指揮した山本朗さん(98年、78歳で死去)は、晩年に書き続けた自分史で「四日夜」を回想している。

 「やっと明け方近く白み始めた頃、(輪転機の)快調なリズムが聞こえはじめた。私はその傍らに立ちつくして、そのゴウゴウという音を聞きながら、死んだ誰彼の顔を思い出して涙を流した」

 5日付2面トップは「郷土の復興いつの日」の見出しで、住宅や電灯、ガス、電車・バスの復旧状況をまとめ、こう訴えた。

 「市民の希求して止(や)まないのは巧緻精妙、雄大深遠なる復興の構想ではなくて寒さに対する家であり、衣であり、飢に対する食物の補給にほかならない」。ガレキは廃虚を覆い、人口は被爆前の3分の1を下回る13万6千余人だった(市の11月調査)。

 復興のつち音が高まるのは国の特別立法である「広島平和記念都市建設法」の49年公布から。人口が戦前の40万人台に戻るのは57年。中国新聞の再建もいばらの道が続いた。被爆の実態を見つめ核兵器を人間の立場から捉える報道は、原水爆禁止運動の高まりと分裂を経た、連載「ヒロシマ二十年」(65年度新聞協会賞)から本格化する。

「不屈の魂」受け継ぐ

 今日の118万都市広島の街も中国新聞も、先人たちが未曽有の苦難に立ち向かい、屈しなかったからだ。

 炎上する本社にいち早く着いた加藤新一さん(82年、81歳死去)は得意の英語を生かし国際的な市民運動の先駆者に、山本安男さん(83年、80歳死去)は広島の短歌運動の柱に、代替紙を軍の無電で依頼した糸川成辰さん(同、78歳死去)は「原爆被災資料広島研究会」も率いた。

 大佐古一郎さん(95年、83歳死去)は、「ドクター・ジュノー武器なき勇者」も著し、被爆直後の惨状を撮った松重美人さん(2005年、92歳死去)らと80年に「広島特報」を発行した。原爆で紙面が中断した2日間の空白を埋めた。

 中国新聞はきょう5月5日、創刊120周年を迎えた。山本治朗会長(63)は「不屈の魂が新聞社のみならず広島のDNAだと思う。受け継ぐ者たちは風化させてはいけないし、伝えていく務めがある」と言う。

 「通信が途絶え、輪転機も回せぬ中で、どう使命を果たすか」。昨年3月11日の東日本大震災に襲われた被災地で紙面を読者に届けた営みを、同年の新聞大会特別決議は「新聞の原点」と表し、「社会の公器としての責務」の遂行を誓った。

 被爆地広島に本社を置く中国新聞の原点でもある。先人たちの「不屈の魂」を受け継ぎ、読者や地域とともに歩むのは変わらない。(連載は今回で終了します)

(2012年5月5日朝刊掲載)

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