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連載・特集

『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <9> 母の死

骨まで奪う原爆に怒り

 1965年8月、後に妻となる山根ミサヨさんと出会った

 ひょっこり広島に帰ってきた。で、看板屋時代の仲間たちに、明日は東京に帰るから、今日は打ち上げで知り合いの女の子連れてこい、って呼んだんよ。広島朝日会館(広島市中区)の屋上のビアガーデンでビール飲んで、「本命」の女の子を紹介されたけど、暗いんよ。「こりゃ駄目だ」って。

 中に、後で女房となる女性がたまたまいて、明るいんよ。ほいでね、ビールをジョッキ2杯飲んだ。僕は、こりゃあいける、楽しいな、と。で、東京に帰って文通して結婚したんよ。

 自分が原爆に遭っている、というのは、とげが突き出ていてカリカリ触られる「痛み」を感じますよ。女房と結婚する時、おそらくその問題にひっかかってくるだろうな、と。向こうの両親も幸いに理解があった。

 66年2月に結婚し、4月に漫画家として独立した

 アシスタントやってると、プロダクションの一員となって、月給もらって生活する、という者がいっぱいいるわけよ。そのうちに自分で創作する意欲がなくなっていく。

 僕は、それが嫌でね。自分は作家として生きなくちゃいけない。アシスタントずれして生活費のために自分の目的を間違えちゃいかん、という意識があった。

 独立すると生活が不安定になる。でも、下描き持って出版社を回ると、仕事が決まって原稿料が入って順調だったから、自信があったね。最終的に、開き直れば看板職人の腕がある、という安心感があった。

 独立半年後の66年10月6日、母キミヨさんが60歳で亡くなった

 おふくろは、脳出血で倒れて広島赤十字・原爆病院(中区)に2年間入院して、2年間は自宅治療してた。「ハハ シス」と電報が来た時には、足が震えて止まらなかった。

 怒りが突き上げたのは、おふくろを荼毘(だび)に付したとき。骨がないんよ。小さな破片が点々としていて、どっちが頭か足か分からん。腹が立って腹が立ってね、原爆はおふくろの骨まで奪っていくのかと。原爆のことをこのまま放っておくものか、って気持ちになった。

(2012年7月18日朝刊掲載)

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