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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <2> 創業家

政治と一線 祖父の決断

 私は大正8(1919)年8月20日、山本実一、弘子の次男として広島市(現在の中区小町)で生まれた。3歳年上の兄があった。中国新聞の創立者である祖父山本三朗は幼名を「利三朗」といったそうだ。そこで初孫である兄には上の利の字をつけて「トオル」と読ませた。私には下の朗の字がついて「アキラ」と読む。

 三朗は文久元(1861)年生まれで、(24歳の年に)山本恒介の養子となった。明治36(1903)年クニと結婚した。クニは明治元年生まれで、鹿児島の富田正弘と結婚して、弘子、正房の2子をもうけたが、正弘が死亡したため三朗と再婚した。三朗は実子がなかったため、それぞれと養子縁組を行った。

 自由民権論の広がりを背景に1892年5月5日、山本三朗氏は「中国」を後に広島市長となる長屋謙二氏らと大手町(中区)で創刊。98年社長に就任。1908年に中国新聞と改題し、基盤を築く

 三朗は政治を好み、広島市議から議長まで務めた(議長は04、07~09年)。立憲政友会(大正期は原敬が率いた政党)に属し、(先行紙の)芸備日日新聞としのぎを削った。国会議員の選挙は両派に分かれて、いささか誇大報道で号外合戦をやり、家宅捜索を受けたこともあったらしい。

 背丈は五尺(151・5センチ)あまり、痩身(そうしん)であったが、柔道は免許皆伝部屋許しの腕前だったと聞かされていた。もっとも私が実際に見聞きした三朗は既に晩年でそれほどの精気は感じなかった。

 実一は広島県安芸郡府中町の農業月藤治郎左衛門、テルの六男であった。広島一中から岡山の第六高等学校に学び、東京帝国大農学部に入学した。農学部を志望したのは(米国カリフォルニア州に渡った)三兄朋一と共に大農場を経営する雄志を持ったためであるが、三兄の突然の交通事故死で崩れた。

 そのころ山本との婿養子縁組の話が出て、ぜひ三朗の後継ぎになってくれと請われた。実一は大正4(1915)年25歳の時に三朗の養嗣子となり、山本姓を継ぎ、弘子と結婚した(中国新聞入社は16年)。

 三朗が政治に深入りしては新聞本来の仕事の方は安定しない。たまりかねた実一が、(創刊に参画した)田中秀二営業局長と、政治と縁を切ってもらうよう懇願した。三朗は誠に潔く納得したという。

 それからは社業はほとんど実一に任せ、映画とか玉突きとか囲碁、時には花札も引いていた。当時、社主催の中国実業野球大会があり、利ともども人力車に乗って出かけた思い出がある。好々爺(や)といわれるほどだったが、どうかすると目がキラリと光って、人をして威服せしめるものがあった。

  中国新聞社は1925年、上流川町(中区胡町)に新社屋を建設。31年には福山―広島間の「中国駅伝」を始めるなど、社長が代議士だった芸備日日をしのぐ

 三朗は昭和8(1933)年に亡くなった(享年72)。私が中学3年の時だ。葬式には広島出身の人情大臣といわれた望月圭介氏(逓信大臣などを歴任)らが出席した。実一は三朗をこの上なく敬愛し、その和服の座像を生涯、社長室から離さなかった。

(2012年9月26日朝刊掲載)

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