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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <3> 幼少のころ

学芸会の花形 歌も披露

 3歳ごろ南竹屋町(広島市中区平野町)に移った。移転してすぐに父の実一は腸チフスにかかって、舟入幸町の避病院(現市立舟入病院)に隔離され、その留守に私も疫痢にかかって2人とも危なかった。

 私はそれこそ鳥の羽毛をむしったようになって、医者にまで見放されたありさまだったという。そのころ比治山(南区)で正午になると大砲が鳴らされていた。それを聞くと「ドンが鳴ったよ、ウエハー二つとキャラ一つ」と飽きもせずに歌って、催促していたという。ウエハース(洋菓子)とキャラメルがもらえる約束になっていたのだ。

 南竹屋町の敷地は京橋川に沿い、川の方に突き出ていた。川はきれいで、干潮になると中央には州ができ、河原砂でサクサクしていた。シジミ貝がよく採れたし、満潮になるとイダ、イナ、チヌなどが群れて上った。暑くなったら朝から晩まで川に漬かっていた。

 (6歳になって間もない)大正14(1925)年9月、広島高師付小(現広島大付小)へ入学した。当時の付小は前年9月に入学を許可して「第二部尋常科」と称した。小学校への入学適齢期は何歳なのか、研究していたのだろう。兄の利(とおる)も入学していたので2人一緒に通学した。

 クラスは男女組で各18人ずつ。担任は大久保馨先生、卒業まで変更がなかった。大きな身体でオールバック、度の強い眼鏡をかけて温かく熱心だった。クラスは少人数だし、まとまりがよかった。

 広島高師付小は1905年設立され、当時は東千田町(中区)にあり、秋期入学は18年から26年まで行われた(「高師付小創立四十七年史」)

 川へよく入るので年に1、2度は耳鼻科へ通ったが4年生の時、中耳炎となり、とうとう手術された。術後もハカバカしくなかったので、思いあまって母が拝み家さんへ連れていった。耳の側で「エイ」「エイ」と気合をかけて何日目か、「これで全快した」と言ったが、その日からは全然ウミが出ず、愁眉を開いた。

 まずは元気に跳びまわっていた。学業も上位でほとんど甲だった。中耳炎で長く休んだ時、乙を三、四つもらったくらいだった。唱歌が得意であった。声がよかったのだろう。従って学芸会のスターであった。

 5年生の時は「その後の花咲爺(じい)」という劇で、いじ悪爺さんの子どもが、修行を積んだ末、見事に枯れ木に花を咲かせて殿様のお褒めを受け、実はこれこれと申し出て、いじ悪爺さんの汚名をそそぐという話だった。私がその子どもを演じた。歌あり、長いせりふありで大変だったが評判がよくて、NHKラジオで全国放送までした。

 私は小学5年修了で中学校へ入った。受験期の昭和6(1931)年3月末までには6年2学期までは済ませているわけだ。付小におれば大体は付中に入る。兄は付中へ入った。

 父は広島一中(現国泰寺高)出身だから「誰か、わしの後継ぎはおらんか」と言った。誰かといっても兄弟2人だから私しかない。同じ大久保組の西村敏蔵(後に広島市議)も、津田一男(後に中国新聞でプロ野球コラム「球心」を担当)も父が一中出身で同じようなことを言っているので、一緒に受験した。入学したのは私だった。津田は翌年一中へ、西村は級友と一緒に付中へ入った。

(2012年9月27日朝刊掲載)

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