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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <4> 旧制広島高

友に恵まれ文武に励む

 私は(1歳早く入学した)広島一中(5年制、現国泰寺高)を4年修了で昭和10(1935)年、広島高校文科乙類に入学した。文乙といえば(第1外国語は)ドイツ語であるが、入れ違いで卒業した兄利(とおる)もそうであったし、当時の時代的風潮からも文乙を選ぶことに何のちゅうちょも感じなかった。年は若く未熟であったが、それだけに邪念も少なく真面目に勉強した。成績はいつもクラス上位にあった。

 広島高は1924年、広島市皆実町(南区翠)に開校。35年の文科入試は491人の受験に対し、入学は85人だった(「文部省年報」35年度版)。新制広島大の母体の一つとなり50年閉校した

 家は平野町(中区)だから学校まで歩いて15分くらいだが、これをほとんど自転車に乗って通った。とにかく3年間無遅刻、無欠席を続けた。当時としては珍しい記録だったのか、卒業の時に皆勤賞としてメダルをもらった。

 昭和10年からの3年間といえば、二・二六事件(1936年)あり、日支事変(37年からの日中戦争)ありで抜き差しならず、破局的な第2次世界大戦への道を間違いなく歩み始めているのだが、まだまだ旧制高校らしい自由な雰囲気を多分に残していた。私は厳格な一中生活から解放されて、あらゆるものが珍しく、興味津々であった。

 まず制服にポケットがあって、手が突っ込めることだけでうれしかった(一中の制服ズボンは尻ポケットしかなかった)。げたばきで通学し、髪を伸ばした。5~6カ月一度も理髪店にゆかなかった。必ず日本手拭いを腰にぶら下げていた。

 とにかく映画に没頭した。土曜日の午後は大抵、中島本町(現在は平和記念公園)の昭和シネマに通った。洋画の全盛時代。ドイツものの主題歌「会議は踊る」などを口ずさんで得意になった。それから翻訳の小説、岩波の赤巻き(外国文学シリーズ)を買いあさり、手当たり次第に読んだ。次は音楽、ビクターの大きな電蓄を買ってもらった。それからSPレコードを買いあさった。さすがに母が「本当にこんなに買ったのか」と嘆いたものである。

 要するに普通の高校生の通る道を私も同じように進み、いろんな文化の花が少しずつ私のなかで開いていったのである。

 夏には宇品(南区)で(クラス対抗の)ボートレースがあり、紋付き姿で参加し、夜はコンパをした。秋の文化祭で「大漁節」を歌い舟を引っ張った。その踊りの練習を何度か比治山でやった。

 よい教師、よい友人にも恵まれた。一中入学以来の友人寺西信美君(後に新日鉄副社長)とは何をするのも一緒だった。文甲の永野厳雄君(同級、広島県知事)、理科の松谷健一郎君(1年後輩、中国電力社長)、山内敕靖(ただやす)君(2年後輩、広島ガス社長)ら数え上げれば際限がない。

  95歳。東京都世田谷区で壮健な寺西さんは旧制高校のよさをこう回顧する。「人間としていかに生きるかを模索できる自由な時間と教育があった」

 連れ立って本通りを歩き、時間を忘れて語り、ボートをこぎ、ピンポンに興じ、クラスマッチのサッカーで優勝したこともある。みんな若く元気はつらつとしていた。その豊かな交友の中で刺激を受け、磨かれ、私はおおらかに成長した。

(2012年9月28日朝刊掲載)

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