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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <5> 経済学徒

目前の兵役 不安な日々

 昭和13(1938)年東京帝国大学経済学部を受験した。試験は日本史と外国語(ドイツ語)、身体検査。4月上京して東大生となった。角帽と黒の詰め襟、襟にE(経済学部の記章)の字をつけて、みんなその制服で通学した。

 下宿は駒込浅嘉町(現東京都文京区本駒込)の(小学校教諭)柴田幸彦さん宅の2階だった。兄利(とおる)も3年間お世話になり(東大文学部を卒業)入れ替わりだった。下宿代は月35円。初めは75円送ってもらっていた(高等官公務員の初任給と同額)。本代と昼食代くらいしか必要ないので余分なものは郵便局へ持参した。父が上京のたびに小遣いをくれたのも一緒だ。卒業の時には千円近くになっていた。

 1学年の期末試験が迫ってきたころ、河合栄治郎、土方成美両教授派の抗争事件が起き、経済学部は崩壊するといわれた。学生は落ち着きもなくウロウロと不安な日々を送った。河合門下の大河内一男講師(後に総長)にはドイツ経済学を教わっていたが、学校に残ってほしいと広島高出身者で嘆願書をだした。

 労働問題を扱った河合教授の著書が発禁となり、対立する土方教授も当時の平賀譲総長が休職処分にしたことから教官13人が辞表を提出するなど混乱が続いた(「東京大学経済学部五十年史」)

 2年生になって(広島一中からの親友)寺西信美君が経済学部へ入学してきた。夜読書していると窓の下から「ゴンよ」という声がする。山本権兵衛(海軍出身の大正期の首相)があまりにも有名で、昔は山本といえば「ゴン」が普通のあだ名であった。呼び掛けがないと私が寺西を誘い出しに行った。といっても、その辺をブラブラ歩くか、せいぜいミルクホールに行くか。飽きもせずに経済学のこと、あるいは人生のことなどを語り合った。

 経済学部だからマルクスを読み、労働価値説を理解した。しかしその批判も熱心に読んだ。どちらにも深入りしなかった。3年生の期末試験の前には毎日12時間近く勉強した。「経済学史」の答案十数枚を一気呵成(かせい)に書き上げた。終わった時に、こんなに理論を要求されることは二度とあるまいと、寂しく思ったことを覚えている。

 学生が終われば就職である。しかしこの時期の若者には兵役が厳然と待ちかまえていた。不安で腰が落ち着かなくても致し方なかろう。それだけ友人が貴重だった。場所を決めて昼食後、広島高出身者はいつもそこで会った(寺西さんによると大学図書館前)。二度と会えなくなるかもしれぬ。しかし誰もそんなことは口に出さなかった。

 私は海軍の短現(大卒者を原則2年間、現役の主計科士官として採用)を受験した。兵役の中では人格を尊重してもらえそうに思えたからだ。そのためには海に関連した職場の方が有利なのではないかと素人考えで大阪商船(現商船三井)を受験した。何とかパスした。

 東大では昭和16年の卒業式に父母同伴も可にしてくれた。あとで級友2、3人も加えて上野の精養軒で父母がごちそうしてくれ、楽しい卒業祝いであった、ただその夜、短現落第の内報があった。

 私はそれまで大阪商船本社で新人社員教育を受けていたが、短現が駄目なら海にこだわることはない。父とも相談の上、書類その他を返還しおわびを申して引き下った。それから父と一緒に広島へ帰った。

(2012年9月29日朝刊掲載)

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