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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <9> 海軍見習尉官

理不尽さに耐え連帯感

 昭和19(1944)年9月30日、私は第12期の海軍主計科見習尉官に任ぜられ、築地(現東京都中央区)の海軍経理学校へ入校した。大竹海兵団から10人ばかり一緒に上京した。大学から直行してきた者たちが戸惑っている間、こちらは余裕を持っていた。それもつかの間。教育、訓練は厳しさを増してきた。それも致し方のないことだ。たった6カ月という短期間に将校をつくり上げねばならない。戦争中それも末期である。

 帆布のような締め込みを着けての相撲、カッター、駆け足で身体を鍛え、団体訓練をした。一人の誤りは全員の責任であり、前後列で殴り合い、雪の真夜中に校庭で正座をさせられた。だんだんと食事が粗末になり量も少なくなった。みな空腹に耐えかねた。イワシの頭も腸も残らず食べた。校外駆け足でミカンの皮をみると拾い上げて食べたいと思った。

 圧巻は卒業間近に行われた池端鉄二中佐の講演であった。私は原爆でいろんなものを失ったが、不思議に経理学校時代のノートが3冊残っている。一つに講演の走り書きがある。みな最後の辺りで興奮のあまり身体を震わせ、泣きながら聞いたのを思い出す。「本土上陸を叩(たた)けるか、叩けないか、毎日それほどの気持ちで訓練してきたか。勝利への道を阻む者は殺せ」と絶叫している。

 そのころ書いたものを見ると、とにかく経理学校生活は安易な感激とむちゃくちゃな連帯感の押しつけで、しらけてしまったとある。よほど神経を逆なでされたのが悔しく、容赦ならなかったのだろう。

 しかしそういう中で、お互い苦労した仲間意識は強烈に残った。どんなにつらいこともみんな一緒だから耐えられたのだろう。

 12期の総勢は917人。その一人で旧広島総合銀行(現もみじ銀行)の頭取だった篠原康次郎さん(94)は「必ず勝つとの思い。不安や不信は胸のうちに押し隠した」という

 11月末から日曜日には外出が許可されることになった。信子はそれに合わせて横浜で寄宿して、築地の六方館(旅館)に会いに来てくれた。いつも腹を減らした餓鬼なのだから、何でも食べられるものを持参してもらった。せっかく若妻と会いながら、やはり食うことが一番初めだということを知った。貴重な体験というべきなのだろうか。

 昭和20(1945)年2月か3月の日曜日、兄利(とおる)(中国新聞社編集局長)と熊野英坤(ひでつち)君(山口支社長)が一緒に六方館へ来た。日本新聞会(新聞事業の統制機関。45年3月に日本新聞公社)の用事で上京したとか言っていた。熊野君は若夫婦の邪魔をしてはいけないからと盛んに袖を引っ張ったが、いつになく兄は長居をして歯切れ悪く帰ってしまった。これが兄と会った最後になった。

 3月10日早暁B29による大量焼夷(しょうい)弾爆撃により京橋、新橋、築地など学校周辺に火の手が上った。私は庁舎3階が警備配置で辺り一面火の海になったのを目撃した。当日は予定通り競艇大会が行われ、(隅田川)上流へ上ったが、河畔両側見渡す限り灰じんに帰し、くすぶり続けて凄絶(せいぜつ)であった。

 戦局いよいよ急を告げていた。3月下旬、配置が言い渡された。千葉県木更津市の第二海軍航空廠(しょう)に配属された。教官や残留者の「帽振れ」に送られて経理学校を後にした。

(2012年10月5日朝刊掲載)

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