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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <10> 廃虚への復員

兄が被爆死 号泣の父母

 昭和20(1945)年4月、第12期海軍主計科見習尉官卒業生から7人が千葉県木更津市の第二航空廠(しょう)に配属された。その中から私一人が佐貫町(現富津市)へ行けと申し渡された。峠の各所に横穴を掘って二空廠の機械を疎開し、航空機部品の修繕をするということだった。

 1カ月くらいたってから私は妻子を呼び寄せて暮らした。先はどうなるか分からない。一緒におりたい。それだけしか考えていなかった。信子もそうだった。

  現在89歳。妻信子さんは「九十九里浜に敵が上陸すれば、山本は突撃すると本気で申していました。それでも親子一緒なので幸せでした」と振り返る

 下宿には鍋釜類もなかった。石油缶を輪切りにして一つは(長女)光子の便器、もう一つは鍋代用にした。信子は妊娠してつわりが始まった。6月1日付で少尉に任官した。

 8月6日広島に新型爆弾が落とされた(大本営発表は7日午後3時半)。新聞を読み、ラジオに耳を傾けたがハッキリしない。父母や家族や社員や親しい人々はどうなったのか。心配で仕方がなかったが、知るすべもなかった。

 15日、正午から天皇陛下の放送があるというので、聞くようにと伝えて回った。もう少し頑張れという激励の放送だくらいにしか理解していなかった。国民学校の校庭で放送を聞いた。初めはよく分からなかったが、やがてこれで終戦になったことが分かった。女の先生が座り込んで泣いていたのが印象的だった。

 皆いら立っていた。私たちも不安だった。8月下旬、東京支社の杉浦季雄君が広島へ行って来たからと現状を伝えてくれた。父母は大丈夫だが、兄が(広島城内にあった)中国軍管区報道班で戦死したこと、誰彼の消息。郊外(温品村=広島市東区)へ輪転機1台を疎開してあるので印刷できるよう準備中ということも聞いた。ショックだったが、この情報提供はありがたかった。私はやっと広島へ帰る心準備ができた。まず両親に会おうと思った。

 9月1日朝、佐貫駅を後にした。東京駅から眺めた光景も、沿線のどこそこも焼けて荒廃を極めていた。暗たんたる気持ちだった。翌日の午後何時ごろだったか広島駅に着いた。聞きしにまさる焼け跡だった。

 社は焼けたけれども立っていた。私は遠くからにらみながら歩いた。近くに来たらバルコニーに誰か立っている。どうも村上哲夫さん(主筆)らしい。思わず大きな声で叫びながら走り込んだ。広島で社の同人を見た最初である。

 (トラックで安芸郡)府中町へ急いだ。7月に疎開したということだった。父も母もこの1年間で、思っていた以上に老いていた。

 私は玄関を上がって両手をついた。「ただ今復員いたしました。兄貴は残念なことでした」。父も母もワッと泣き伏した。この時の光景をそれこそビデオに撮ったように明確に覚えている。父母の表情まですべてである。後に終戦の時に何を考えたかという話が出て、父は「ああこれで息子一人は助かった」と思ったと言った。兄の死や原爆被災で気力を失っていた父が、私が帰宅してからがぜん元気になったと母から聞いた。

 その当時の習慣に従って私は翌日、(士官として正装の)第3種軍装に身を固めて近所を回って復員のあいさつをした。これが軍装を着用した最後である。

(2012年10月6日朝刊掲載)

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