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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <16> レッドパージ

GHQ命令 21人を解雇

 昭和24(1949)年3月29日、GHQ(連合国軍総司令部)新聞課長インボデン少佐が中国新聞本社を訪れた。経営者に対して警告を与え、夕刊(別会社で発行の「夕刊ひろしま」)を含めた全社員に講演した。警告は「共産主義者の排斥はマッカーサー元帥が繰り返し述べている。指揮下にある組合にいろいろ譲るのは一体どういうことか」というものだった。

 新聞事業も統制したGHQの占領政策は、労働運動の急進化や米ソ冷戦から反共色を強める。ダニエル・インボデン少佐はカリフォルニア州の元新聞経営者で各新聞社に「むき出しのポーズをとるようになった」(「日本新聞協会十年史」)

 そして昭和25(1950)年の夏がきた。(朝鮮戦争が起きた翌月の)7月28日東京で新聞関係第1次レッドパージが断行された。ついにGHQの決断が下ったわけだ(8社で336人が一斉解雇)。

 7月29日雨だったが午後3時、津田正夫新聞協会事務局長がこっそり来広。築藤鞆一代表取締役らと話を聞いた。タ方、愛媛新聞社社長も到着。翌30日には山陽新聞社副社長らも来広。津田氏は地方紙のレッドパージについて間違いのないよう連絡に来たわけである。氏の話を私は全部書きとった。

 後にアルゼンチン大使となった津田氏は、中四国の社長を岡山に集めて30日説明したという(1980年の「別冊新聞研究」)。食い違いはあるが、経営者がパージの内実を詳しく残したのは極めてまれだ

 「8月5日共産党員、秘密党員および同調する者、社が認める者を解雇すること。これはGHQ(公職審査課長ジャック・)ネピア少佐の命令である。各新聞社の社長に一任するが、国警(国家地方警察)手配済みで日本の法律の外に置かれている。解雇理由はマ元帥書簡(共産党機関紙アカハタの無期限発行停止を吉田茂首相に7月18日命じた書簡)の趣旨に基づいて行う。党員、これはCIC(防(ぼう)諜(ちょう)部隊)、国警で調査している。申し渡す場合は元帥の趣旨により問答無用。それ以外のことは言わぬこと」

 8月5日午後3時、21人に申し渡し(うち女性4人)。辞令受け取る者もなく、みんな集まって築藤代表のところへ押し掛ける。CICが来て大きな声を出す。

 6日原爆の日である。相談して家で休むことにする。私は妻子と(原爆死した)兄利(とおる)の墓参り。夕方何事もなしの電話あり(1950年の広島市平和記念式典も中止となった)。

 7日、残る者はわりに平静なり。パージ組は「沢」(本社近くの喫茶店)に集まって社をのぞく。組合は致し方ないと通告したよし。21人は笠井明士(はるお)氏(常務)と会見。退職金、辞令を持ち帰った。

 9日、中国新聞労組委員長らと私との関係うわさあり。内容を漏らしたとも言うそうだ。言わば言え。私は正しいと思うことをやっている。それが社のためだと信じている。レッドパージは後で補償問題が起きるのだが、活動家が一度に姿を消し、労使関係を安定化させたことは間違いない。

 解雇された松岡甲子夫さん(87)はこう証言する。「米軍の命令が憲法に優先し、活動家ですらない者も追いやられた。烙印(らくいん)と苦闘が長い間付いて回った」。労働省「資料労働史」によると、新聞・通信・放送50社で計704人がパージに遭った

(2012年10月16日朝刊掲載)

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