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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <18> 新聞と放送

報道の確実性 心に刻む

 昭和33(1958)年11月、(平和記念公園にあった)新広島ホテルでラジオ中国の総会が開かれた。「山本実一取締役が(9月に)死亡して一名欠員となった。この選任をいかが取りはからいましょうか」。田中好一氏(山陽木材防腐社長)が直ちに「議長に指名を願いたい」と求めた。築藤鞆一議長(ラジオ中国社長)は「中国新聞社専務山本朗君を指名する」と述べた。

 ラジオ中国(略称RCC)は1952年開局。全国16番目の民放だった。50年の放送法などの公布を受け、中国新聞社に朝日、毎日新聞両社が協力して設立が進められ、当時の山本実一社長が初代社長に就任。57年に築藤氏と交代した(「中国放送の50年」)

 私はその後の役員会で「私事で恐縮だが」と、こうあいさつした。

 「父は新聞に専念して生涯を終えたが、民間放送には関心を持ち、社長を辞めて病床にあった時もその前途に意を用いていた。父の死亡欠員の補充に選ばれ、亡き父も喜んでくれていると思う。皆さまのご真情に厚くお礼を申し上げる」

 田中氏からは「ラジオ中国が市民球場の寄付(1957年、広島財界10社の資金提供で完成)を断った時には腹が立った。その500万円を断る代わりに、お父さんが新聞社で持たれたのには感心した」と言われた。父に勧めたのは私だったが、こういう形(取締役選任)で返ってくるとは思いもしなかった。

 ラジオ中国は昭和34(1959)年にテレビ放送を開始し、36年には新放送会館ができた(現在の中区基町)。そういう時期で増資が相次いだ。私は父の持ち分の相続税支払いに追われながら、相次ぐ増資に応じた。朗は持ち分を維持できまい、と追い打ちをかけられている気がした。負けてたまるか。父の株を預かっていた人たちの分を返還してもらい、はっきり私の名前にした。増資が済むと新聞3社に次いで、個人ではトップになっていた。

 放送会館の落成披露では、放送の景気のよさが話題となった。列席した京都新聞社の白石古京社長は後で立ち寄り、「新聞はもうけになるとか、ならないとかいうものではない」と強調した。私は白石説に賛成だ。新聞は速報性では電波にかなわないかもしれぬ。しかし信頼性は新聞のものだ。われわれは、地方の、大きく言えば国の繁栄のためにもうけを度外視して新聞を経営するのだ。

 昭和42(1967)年2月のラジオ中国の取締役会は、社名変更が議題となった。テレビ放送もしているのだから包括した名前にしなければならない。毎日新聞から来た役員が社員の人気投票アンケートをとったりした。「世界の広島」という意識や、「中国放送」というと中国の放送のようだと「中国」を取り去りたがった。片仮名書きのヒロシマ、瀬戸内海、極東というものまで出ていた。

 私は、社名変更を提案した田中氏を訪れ、「『中国』を変えられるのは困る。いや承服できぬ」と言い、広島側を結束させて回った。当日、この問題が上程されると、田中氏は「それぞれに発言してもらおう」と口火を切り、社外役員を含め1人ずつ意見を述べた。結局、中国放送が圧倒的に多かった。

 中国新聞社は1988年、朝日新聞社との間で互いに所有する中国放送と広島ホームテレビ(70年開局)の株を交換し、RCCとの連携を推進する

(2012年10月18日朝刊掲載)

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