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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <20> 新社屋建設へ

被爆地広島 立地で考慮

 中国新聞社の上流川町(広島市中区胡町)の敷地は合名会社「中国社」など所有の690坪(1坪は3・3平方メートル)である。延べ2400坪を使用しているが(被爆後の)継ぎ足しで効率が悪い。一番困ったのが印刷工場である。

 輪転機は11台に増えたが地下室がなく給紙ができない。2台連結、4列縦隊である。柱が邪魔をしてコンベヤーシステムが取れず人力で(刷り上がった新聞を)担ぐしかない。その上、冷暖房、空調がうまくゆかぬ。上流川町が繁華街になりすぎて新聞巻き取り紙の搬入、朝タ刊の運び出しが困難である。社屋を移転してはどうかという意見が昭和39(1964)年ごろから出始めた。

 高度成長期、広告収入の増大やファクス登場などの技術革新で、新聞界は、「質的変容」を遂げる(春原昭彦「日本新聞通史」など)。中国新聞は1963年に朝刊16ページ建てとなり、64年の東京オリンピック時は臨時20ページを発行する

 土地選定委員会をつくり候補地を当たった。(中区中町にあった)アメリカ文化センター(ACC)と、(平和記念公園にあった)市公会堂の川向かいの土橋町が浮かび上がった。

 ACCは県所有地730坪で賃貸し更新期が昭和40年。ACCを通しての話にすれば払い下げは可能かもしれないという。土橋町の土地は4面道路に囲まれた一角を全部入手すれば930坪。鹿島建設が目算をつけて持ってきた。平和大通り沿いから畜産連(県畜産農業協同組合連合会、現JA全農ひろしま)、立町(中区)での食堂経営者、民家や旅館となっている。

 新社屋を建設するとなると、低く見積もっても土地3億、建物5億の計8億円は必要だ。それだけの負担能力は「中国社」の土地しかない。上流川町を1坪150万円として9億円で処分するか、担保にするか。「中国社」は土地はあるが営業能力はない。新聞社は資産は3億円だが収入がある。論争の的となった。

 私は、新聞社は合名会社とはっきり分離して自分の土地や建物、機械を持つべきだと考えていた。だから合名が担保なり保証なりは当然するべきではあるが、新聞社が自分で土地を買うべきだと強調した。

 平塚町(中区)の福山通運所有を主とする1200坪が有力になったこともある。新聞社は他の生産工場と違う。どこでもよいわけではない。土橋町の候補地は平和記念公園と本川を隔て対する。広島が原爆と切り離せない以上、広島の新聞社の立地としては大義名分がある。社長と相談して土橋町に踏み切った。

 ところが、有名な土地ブローカー氏が一角に手付けを打ったとの情報が入った。このころの広島の大きな建築には必ずこういう邪魔が入った。とりあえず畜産連400坪、食堂経営者の200坪を取得することにした。吉岡豊君(当時、販売局次長)と畜産連の三役との間で虚々実々の駆け引きがくり返され、「(坪単価)32万円」となった。

 昭和40年8月19日、私は畜産連を訪問して仮契約書を結び、内金を払った。この日は中国新聞の原爆企画が新聞協会賞の選に入ったというのでお祝いが重なった。しかし、4面道路の土地をすべて入手したいので引き続き交渉を続けた。

 1965年、「ヒロシマ二十年」(朝刊7月8日付から30日間連続の1ページ特集など)は新聞協会賞を、63年から取り組んだ組織暴力追放キャンペーンは菊池寛賞を受賞した

(2012年10月20日朝刊掲載)

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