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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <21> 社長就任

目標に定めた人間尊重

 広島市土橋町(中区)に土地を買ってから昭和42(1967)年末までの約2年間、新社屋建設の計画づくりに明け暮れた。畜産連(県畜産農業協同組合連合会、現JA全農ひろしま)などに続き、周囲の民家も入手した。

 購入代金は3億4千万円、計930坪(1坪は3・3平方メートル)に広がった。設計の基本は何ページ建てで何万部までの新聞を印刷するかにかかった。

 そして24ページ建て50万部の目標を決めた(68年に朝刊は30万部を突破する)。1期工事は輪転機18台を据える。給紙を地下2階、輪転機は地下1階から1階へ、発送は2階、3階は(紙面を組む)活版、4階は編集部門ということになった。

 最終的には地下2階、地上9階になったが、設計の村田正君(村田相互設計事務所長)は高層を計画し、13階建て、塔屋2階の15階を主張した。一応9階に収めても本社部分5千坪、テナント部分1500坪の計6500坪。(7、8階の)ホールの吹き抜けも加えると7千坪になる。13階までやると広島では最高最大の建物になる。

 建築費は初めから坪当たり20万円で計画し、(施工する)鹿島建設とも条件を話し合った。本社部分建築費に10億円以上は出せぬ。本社部分を5千坪としたゆえんだ。テナントも入れると7千坪、14億円の数字が出るが、この部分は協力金、敷金は業者払いなどにしてほしいと交渉した。

 最後までみんなが頭を悩ませたのが、旧輪転機を新社屋に持ってゆくかどうかだった。ことに1号機輪転機は原爆の後、疎開先(東区温品)から持ち帰って全社員の生活を支えた思い出深いものだ。しかし致し方ない。清潔で機能的なビルを建て働きやすい環境と、新鋭機械設備できれいな紙面を作りたいのだ。旧機は廃棄し、すべて新機にすることにした。

 中国新聞ビルディング(延べ2万830平方メートル)は1968年2月着工、69年9月に完成。同23日に移転を完了した。旧社屋は解体され、三越が73年出店する

 昭和44(1969)年10月31日取締役会が開かれた。会長制実施のため取締役会規定を改正し、会長に山本正房、社長に山本朗を専任した。誰も声を荒らげる場面もなかった。

 役員会の後、初代社長と父の墓に参った。母は涙を流して喜んでくれた。思えば、社長になった報告を父の墓にすることをいつの日から待ち望んでいたか。母が元気な間に果たすことができ、これ以上うれしいことはなかった。

 11月1日、中国新聞ホールに全社員を集めて、まず会長、続いて私があいさつした。

 この日が近づくに連れて社長として一番何がしたいのか、何が言いたいのかを考えた。月並みかもしれないが、人間を尊重したい。それが一番大切なことだ。私の考えの基本だ。それを率直に言おうと決心した。そのための「人間尊重」を就任の辞にした。

 当時50歳。回想録は就任時のあいさつ全文を併せて書き起こしていた。最後にこう述べている

 「新聞は人がつくる」。人材を養成し、適材適所に置き、能力を開発してゆきたい。私も皆さんもこの社に生涯をかけている。誰にとっても人生は一度しかない。繰り返しは利かないのだ。それなら本当に楽しい、やり甲斐(がい)のある社にしたい。これから衆知を集めてやってゆきたい。宜(よろ)しくご協力をお願いします。

(2012年10月23日朝刊掲載)

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