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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <23> 脱活字

出遅れれば将来に禍根

 昭和55(1980)年10月の第33回新聞大会は広島で開催された。前回広島で開かれたのは第8回大会で25年ぶりである。中国新聞社も成長した。「世界の中の日本の新聞」と題した研究座談会で、この10年間で行った事業を紹介した。

 広島市と作った記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」の英語版を創刊80周年の1972年、世界の主要14新聞社へ贈呈▽77年、ひろしまフラワーフェスティバルを開始▽広島国際文化財団を設立し、79年から米国の地方紙記者らを被爆地に招く財団の事業を支援(10年間で計34人を招請した)

 大会が終わった後、朝日新聞社の築地新社屋(東京都中央区)を見学させてもらった。全面CTS化にIBMと取り組んでとうとう完成させ、オフセット印刷を連動させていた。CTSをやらなくては将来の競争に立ち遅れる、しかし伝え聞くような資金が要るようでは、とも考えた。

 「脱活字」。コンピューターで記事や画像を処理して紙面を組むCTSは1960年代後半から研究が始まり、日本経済新聞が78年、朝日新聞が80年9月に全面実施した(杉山隆男「メディアの興亡」など)

 中国新聞はCTSもオフセットも両方やらねばならぬ。昭和51(1976)年、新聞製作総合開発本部を発足させ、研究を進めた。朝刊の発行部数は60万部へと近づいていた(82年に突破)。CTSか、オフセット輪転機の導入か。どちらが先であるべきか迷ったが、紙面が鮮明でカラー印刷がきれいになるオフ輪を先にする決意を固めた。

 昭和58(1983)年3月、広島市西区商工センターで井口工場を起工し、12月、(導入した)三菱重工業のオフ輪の始動式を行った。翌年1月から夕刊印刷を、4月から朝刊の5分の1の印刷を始めた。

 残りは上半身の全面CTS化である。すぐ実行するつもりであったが59年4月以降、広告収入が連続して前年比割れを起こした。翌60年、各社のCTSが出そろい始めた。ことに大阪の全国紙が一斉に突入するといわれ、これ以上の遅延は将来にわたって禍根を残すと考えた。年頭あいさつで「今年こそは機種を決定する」と宣言した。

 IBM、富士通のCTSはここ数年の間に低額となってきた。計画を始めた当初はまず50億円といわれたが、最終的に20億円を下回った。中日、北海道新聞はIBMの基本ソフトを購入して自社開発を付け加えた。富士通は北国、京都新聞などに入った。

 (1985年)2月の取締役会で富士通に機種を決定した。IBMを強く推した者もいたが、富士通は中規模の新聞社で経験があり、フォローサポート面の有利さや(75年始動の)事務電算との一元化管理などに期待した。最終見積もりは17億円以下、完成は昭和62年暮れと富士通に話した。

 これからどういう教育訓練をして、どうCTSにスムーズに移行するか、労組との交渉に入らねばならぬ。相当の抵抗が予想されるが、常識的な線があるはずだ。いずれ納得了解されると考えている。

 新聞製作総合開発本部の初代事務局長だった長安晢郞さん(80)は「新聞製作の革命といわれたCTSは設備投資を含め一大事業。社員も危機感を共有した」と振り返る。「フェニックス」と名付けた中国新聞社のCTSは1988年8月1日付朝刊から全面移行。全面オフセット輪転機体制は95年に整った

(2012年10月25日朝刊掲載)

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