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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <25> 新聞人として

信じるもの 恐れず主張

 昭和60(1985)年度新聞協会賞のキャンペーン連載企画で、「ヒロシマ四十年」報道(「段原の700人」「アキバ記者」)が受賞した。選考分科会は「広島の新聞社としての使命感を発揮し、事実を積み重ねる報道姿勢も高く評価される」と満票で推薦した。

 10月、静岡市で開かれた第38回新聞大会で今中亘報道部長に協会賞が渡された。その夜、尾形幸雄編集局長とともに私たち夫婦が泊まっていた部屋を訪れてきて、「純金の協会賞(メダル)の封を切ってみてくれ」と言った。重みがあった。

 この年1月、中国新聞の暴力追放キャンペーンに対し、暴力団組員が社長宅に銃弾を撃ち込んだ。今中亘さん(76)は「駆け付けると『書くべきことを書けばよい、気にするな』と言われた。本物の新聞人だった」と語る

 昭和64(1989)年1月7日午前6時33分、天皇は崩御された。中国新聞社は「崩御の号外」を67万部印刷して全読者に配布した。新元号発表は午後2時37分。これも「平成決定号外」を出した。

 第43回新聞大会は平成2(1990)年、金沢市で開催された。この時、日本新聞協会の小林与三次会長(読売新聞社社長)は病気療養中だった。(協会副会長として)見舞いに行くと、大会は「よろしく頼む」ということだった。

 10月、金沢市文化ホールで大会が始まった。会長あいさつに続き協会賞の表彰が行われ、私は前に出て一人一人に渡した。2人目が中国新聞社の連載企画「世界のヒバクシャ」取材班の代表島津邦弘君だった。

 「世界のヒバクシャ」を始める前、尾形編集局長が「金を使わしてもらう」と言うので「心配するな。使うがよい」と返事をした。実際に2千万円近い旅費が要った。取材は世界15カ国、21地域に及んだのだから当然だろう。核の実験場、あるいは核廃棄場は文明から遠隔の地だ。そんなところに取材班は嫌がらずに飛んで行った。

 「先輩の故金井利博記者は『核は威力として知られているが人間的悲惨さとしては知られていない』と言った。この痛切な思いを伝えることが課せられた宿題と考えてきた」。島津君の受賞の言葉にはヒロシマ記者の伝統が受け継がれていた。うれしいと思った。

 回想録はこの新聞大会をめぐる記述で終わる。都道府県選管連合会会長も務めていた1991年に勲一等瑞宝章を受けるが言及はない。草稿を除いて、200字詰め原稿用紙に1018枚。書き終えた回想録へ付けた「序文」は、こう結んでいる

 私は新聞人より他の職業に就けばよかったとは一度も思わなかった。もちろん楽しいことばかりがあったわけではない。考えてみたらつらい方が多かったのかもしれない。その経過は正直に書いたつもりである。新聞人だから勇気を出して信ずるところを主張し、あるいは耐えてこられたのだと思っている。

 父は新聞経営の社会的責任を説いてやまなかった。それを頭にたたき込んだ。私はこの父、優しい母にかわいがられた。妻と4人の子を愛し、愛された。そして長男一朗を失った後、妻とは一日も離れられなくなった。山本朗という人間が生きて妻信子と一緒にここまで来た。その確かな「証し」を残すことができ、一安心の気持ちがしている。

 山本朗氏は1998年1月11日、78歳で死去した(連載は今回で終了します)

(2012年10月27日朝刊掲載)

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