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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <2> 軍国少年

国のために散る覚悟も

 生まれは瀬戸内海の島、呉市音戸町。1938年、軍港があった呉市の旧制呉一中(現三津田高)に進んだ

 私は5人兄弟の4番目。おやじは漁網会社の役員でした。網を売り込むのに、あちこち飛び回っとった。日本だけでなく、朝鮮半島や中国へと、海がある所はどこへでも。私と似て冗談も言うが、とにかく厳しい人じゃった。私は理数系に強かったんで、「発明王になれ」とよう言われていました。じゃが、そんなおやじも、中学2年の時に急性肺炎で亡くなりました。それからですよ、おふくろに迷惑を掛けないようにと思って必死で勉強しました。

 国策として、旧満州(中国東北部)に満蒙開拓青少年義勇軍が送り出された

 発明家も目指しとったが、お国のために尽くしたいという気持ちが強かった。まだ、おやじが生きとった頃、満州へ行く義勇軍に志願しようとした。狭い日本は住み飽きた。馬賊の大将になりたい、と。

 じゃが、厳しいおやじには、なかなか言い出せんかった。でも、親の承諾印がいるんで、とうとう打ち明けると、案の定、怒鳴られた。学業を放棄してはいけんと説得され、結局、断念しました。

 軍靴の響きが高まっていたころ。学校が休みの日でも、男手を戦争に取られた農家で農作業を手伝い、江田島の海軍兵学校を拡張する埋め立て工事にも駆り出された

 旧制中学4年の時、海軍機関学校に応募しました。体格検査で不合格になりましたがね。一番上の兄は、私が中学に入学して間もなく、日中戦争で戦死。2番目の兄も、45年ごろ南太平洋のニューギニア島で戦病死していた。それでも私は、お国のためなら戦場の花と散る覚悟はできとったんです。

 軍国主義は恐ろしいですよ。被爆後、意識を失っている間に戦争は終わっていました。意識が戻り、おふくろから敗戦を聞かされた時、「アメリカのデマじゃ。『神の国』が負けることはない。戦場へ連れて行ってくれ」と反論しましたよ。

 信じられたのは、徴兵されていた3番目の兄が、その年の秋に家に戻り、軍服を脱いでからです。

(2013年1月17日朝刊掲載)

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