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連載・特集

「トホホ福島日記」 ③ 家族を襲った「原発けんか」

 昨年12月に広島に行ったとき、あちこちで僕は「原発離婚」の話題を出した。僕が出会った方々の反応は「え、そんなのあるんですか」というものが多かった。

 2011年、福島県で、いや東日本で、どのくらいの夫婦げんかが起きただろうか。おそらくほとんどの人は、自分の夫婦げんかを語らない。でも僕は、僕の夫婦げんかが福島県内で特殊なものだったと思えない。震災後、夫婦に限らず、親子で、親戚で、世に出ないで埋もれてしまった数百万の「原発けんか」が勃発したのではないかと想像している。

 福島市の市街地の小学校の多くは、全校の1割弱程度の児童が、放射能を避けての「避難転校」をしている。1割弱を多いとみるか、少ないとみるかは主観によるところだろう。しかし僕は、深刻ないじめに遭っても、自ら転校を実行するのはよほどのことだと考えている。

 避難転校する人の多くは、働き手の夫を福島市に置き、仙台市、新潟市や山形県米沢市といった一定の距離のある都市に別にアパートを借りて母子避難している。二重生活の経済的負担が生じる上、家族が離れ離れになる。

 さらに、その判断が正しいのか間違っているのか確信がないまま、そしてそれがいつまで続くのか家族中の誰もが分からないまま、避難生活を続けている。

 では、残って、福島市で暮らしている人々は安心しているのか。僕は1割の児童が転校したということは、6割から7割ぐらいの家庭で「転校できるものならしたい」と程度の差こそあれ、悩んでいたのではないかと推測する。

 3・11から1年。さまざまな人々が福島のことを考えている。でも、推測も、思考も、福島市民にすぐに役立たない。行動しなければ、結果を変えるのは難しい。僕は、見苦しいわが家の夫婦げんかをさらすことで、福島市民の苦境を伝えたいと思う。それに福島第1原発の事故を原因とする多くの夫婦げんかが起こったことは、もしかしたら大切な記録になるのではないか、とすら考えている。(漫画と文・福島市の高校美術教師 赤城修司さん)

(2012年3月13日朝刊掲載)

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