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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <7> 母の叫び

必死の呼び掛けに反応

 似島(現広島市南区)の臨時野戦病院に着くと、重傷者ばかりの部屋へ収容された。島へは推定1万人の負傷者が運ばれた

 学校の教室ぐらいの広さに、100人はおったじゃろうか。私は、やがて安心したのか、力が抜けた。一晩明けると、部屋にいた人の3分の2が死んどった。友人が食料を運んでくれ、そのおかげで生きながらえていたが、数日後、別れることになった。

 軍の施設だったため、軍人を収容すると聞いた。それで、少しでも歩ける者は別の場所へ避難することになったんです。私は残された。重傷者はもうすぐ死ぬから、移動する必要がなかったんです。

 矢野(現安芸区)の女性が息子を介抱しに来ていた。矢野ではおふくろの弟がしょうゆ屋をやっていた。私はその女性に連絡を頼んだ。矢野の叔父は、古里の音戸(現呉市)まで、夜通し歩いて知らせに行ってくれました。

 8月8日、母のフクヨさん(1976年に80歳で死去)と父の弟が坪井さんを捜しに似島へ船で駆け付けた

 死者や負傷者が多く、おふくろは、私を見つけられんかった。12日ごろ、島を去ることになったが、おふくろは諦められず、「直(すなお)やぁ、直やぁ、直はおらんかぁ」と所構わず叫び回ったそうです。意識がなくても、子守唄を聞かせてきたわが子なら、きっと反応してくれるに違いないと信じて。そんなおふくろの愛情が通じたんか、「ここにおるよ」と、意識がないはずの私が寝たまま手を挙げたそうです。おふくろの一声がなかったら、私は生きていなかった。

 音戸まで連れて帰ってもらった。終戦も知らず、被爆から50日後の9月25日に意識が戻った

 ウジがわき、髪が抜け、高熱も出た。おふくろは大やけどを負った私のわずかな呼吸を頼りに、寝ずに介抱してくれました。医者からは毎日のように死の宣告を受けました。

 ようやく寝返りができるようになったのは翌年1月でした。九死に一生を得ましたが、その後も病気に苦しめられています。後々まで続く悲惨さは、被爆者全員の姿です。こうして助けられた命。ただ生きているだけでは駄目だと思うんです。

(2013年1月24日朝刊掲載)

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