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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <10> ピカドン先生

体験語り生き方教える

 1957年から広島県熊野町の熊野中に勤務。採用試験を受け、60年から広島市内の中学教諭になった

 海の子どもだけでなく、山や都会の子どもの気持ちも知りたかった。いろんな所で教えて初めて教育が分かると思いました。武者修行です。

 昔からあだ名は「ピカドン先生」。自己紹介で必ず被爆体験を話しました。8月6日の前には、私の数学の時間を割いて話した。全校生徒の前で証言することもありました。

 東区の二葉中を経て、南区の翠町中へ。教頭時代、前身の第三国民学校の「戦災死児童学籍簿」を見つけた。それを機に、生徒会が中心となって遺族や生き残った人から聞き取りし、80年に冊子「空白の学籍簿」をまとめた。今も平和学習の副読本として使われている

 私も生き残った者の務めだという気持ちで、聞き取りに同行した。被爆死した生徒の中には、在日韓国・朝鮮人がいました。建物疎開の作業に出ていて被爆し、9月に亡くなった少女もその一人。しかし、朝鮮半島にいた親と連絡が取れず、骨になっても親に会えなかったそうです。彼らは日本に連れて来られ、差別もされたと思う。日本のために働かされ、原爆に遭ったんです。二重、三重の苦しみを味わっている。日本人だけでなく、彼らが生きた証しも残す必要があると思った。

 当時、新任で頑張ってくれた先生が、今、大州中(南区)にいる松井久治さん(58)。私の思いを受け継ぎ、今も平和学習に熱心に取り組み、後進を育ててくれています。

 安佐北区の亀崎中や城南中の校長を務め、86年に定年退職した

 生徒からは「一番面白くて、一番怖い先生」と言われていました。教員生活を振り返ると、貧血で入退院を繰り返し、3回休職した。生徒には本当にすまんかった。

 2010年、被爆証言のため訪れた米国で、現地で生活しているかつての教え子と再会した。その子は、翠町中時代、対人恐怖症でしたが、米国で立派に働いていました。あの時、原爆で死にかけたことや、諦めないことの大切さを伝えた。結果的に生き方を教えることになったのかもしれない。成長した姿を見られて心からうれしかった。

(2013年1月29日朝刊掲載)

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