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連載・特集

震災2年 岩手からの報告 記録映像作家 澄川嘉彦 <下> 「復興米」命をつなぐ力に

見守る稲に、人々もまた見守られていた

 津波で大きな被害を受けた岩手県大槌(おおつち)町に小さな田んぼがある。直径2メートルほどの円形。稲がなければ池と間違えてしまう。

 昨年5月、ここで田植えが行われた。集まったのは近くの仮設住宅の人たち。わずか90本の苗を譲り合うようにして植えていった。苗はどれもひょろひょろと頼りないが、「よくここまで育ったねえ」という声が聞こえてくるのは、この苗たちが津波を乗り越えて小さな命をつないできたからである。

自宅跡に3株

 津波から半年余りが過ぎた一昨年10月、同町の菊池妙さん(71)は海のそばにあった自宅跡を訪ねた。コンクリートの基礎だけになったわが家を前に物思いにふけっていると、玄関のそばで黄金色に光る植物を見つけた。たわわに実を付け、頭を垂れた3株の稲であった。

 菊池さんの暮らす安渡(あんど)地区は漁師町で、田んぼはない。目を疑ったが、どう見ても稲である。菊池さんは黄金色の稲穂を前にボロボロと涙を流して泣いたという。

 震災の日、菊池さんは途中で津波にのまれそうになりながらも高台にたどり着き、命を取り留めた。その場で多くの人の死に向き合うこととなる。初めて知らされたのは親しい同級生の死であった。その時の思いを菊池さんは次のようにメモしている。

 亡き友を 悔しさと、悲しみと、無念で “馬鹿ぁ”とさけび 胸はりさけ 久し まぶた閉じ 天をあおぐ

 それからは「生きてたの」「助かったよ」が日常のあいさつとなり、一方で次々と新たな死に出会う日々が続いた。

 菊池さんだけでなく、多くの被災者が〝命〟に敏感になっていた。3株の稲を仮設住宅に持って帰り、部屋に飾った菊池さんの話に、鋭く反応する人がいた。隣の遠野市からボランティアに来ていた伊勢崎克彦さん(38)である。伊勢崎さんは「そのお米を増やそう」と提案し、菊池さんから2株の稲穂を分けてもらった。

苗育て田植え

 籾(もみ)の数にして433粒。菊池さんの同級生で、同じく仮設住まいの臼澤康弘さん(71)が苗床作りを買って出た。海水に漬かった籾は3分の1しか発芽しなかったが、臼澤さんは丁寧に世話をした。大学生のボランティアが農園の中に田んぼを作り、とうとう田植えまでこぎつけた。

 小さな田んぼは人の集まる所となった。仮設住まいの人たちが農作業の行き帰りに立ち寄り、「穂が出たなあ」「少し水が足りないか」と話をしていく。人々が見守る田んぼの稲に、人々もまた見守られていた。

 昨年9月末、小さな田は無事に稲刈りを迎えた。稲穂のお母さんともいえる菊池さんは日誌の中で、こう語りかけている。

 貴方には復興米と名付けましたよ お互い助かった命を 大切に明るく ゆっくりゆっくりでいいのです 転んでは起き 又 転んでは起き 生きて行きましょうね

 2年前のあの日、岩手県の山あいに暮らしていた私や家族は無事だった。テレビの取材やボランティアで被災地に通うたび、津波はいろいろな〝モノ〟を流し去ったが、以前と変わらない海や山の恵みに助けられて人々が生きる力を回復しつつあることを感じる。

 菊池さんたちは昨年採れた籾で今年も田植えをする。すでに1反の田んぼを借りている。収穫したお米をおにぎりにして味わう予定だ。菊池さんたちの復興米と同じように、私も周りの自然に助けられ、励まされながら暮らしている。

(2013年3月9日朝刊掲載)

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