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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <1> 平和を追う

戦争の悲惨さ伝え続け

 胎内被爆者の生きざまや海の特攻兵器の搭乗員の苦悩…。山口放送(周南市)のディレクターだった磯野恭子さん(76)は、重いテーマのドキュメンタリーを次々と生みだし、国内外で高い評価を受けた。後年には、山口放送役員や岩国市教育長も歴任。その活躍ぶりは、戦後の女性の社会進出とも重なる。

 山口放送に入社したのは1959年。ドキュメンタリーのテレビ番組をつくりたかったが、女性は待っていてもお呼びが掛からない。テレビは戦後の新しい仕事と思って選んだ。だけど、自由平等な社会はなく、まだまだ古い男性社会のまま。それを少しずつ破るのが、放送局の中での私の戦いだったわけです。

 男性の中で鍛えられながら、自分の道を求めていきました。駆け出しはアナウンサー。制作に移してほしいとお願いを続けて、ラジオディレクターになりました。そこで認められて、テレビジャーナリズムの世界に入ってくるようになったのは70年代からですね。

 胎内被爆した岩国市の原爆小頭症の女性と両親に迫った79年発表の「聞こえるよ母さんの声が―原爆の子・百合子」が芸術祭大賞を受賞。ベルリン未来賞にも輝いた

 私は江田島市に生まれました。広島への原爆投下では、弟や伯母たち親族十数人が被爆した。社会人生活を送った山口県は、被爆地の隣なのに核兵器反対の声が小さかった。だから、私なりの方法で悲惨さを伝えたかった。

 被爆の影響で30歳を過ぎても一人でトイレに行けない娘とそれを黙って見守る両親。そんな生活が(米海兵隊岩国基地の)米軍機の爆音の下にある。日常生活を描いて、戦争の不条理さや平和の尊さを訴える。それが私の手法です。

 手掛けた作品のテーマは、大半が戦争だった

 海軍兵学校の目の前で育った。広島も呉も宇品も近かった。そう、戦争が近かったんです。

 終戦は小学6年の時。全国で都市が焼かれるけど、日本は負けることがないと信じていた。海軍兵学校があるから大丈夫とか、神風が吹くとか。いいかげんな情報に操作されていたと多感な時期に気付いた。私の原体験です。(この連載は防長本社・山瀬隆弘が担当します)

(2010年11月30日朝刊掲載)

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